第5話 風のように、静かに
彼は老人ホームの個室にいた。
名前は田嶋、八十七歳。
一日三回の食事、定期的なリハビリ、読書と散歩を日課にする、控えめで丁寧な生活。
認知症の兆候はなく、耳も目もまだしっかりしている。
けれど彼自身が、それが「長くは続かない」ことを理解していた。
ぼくが初めて観察窓から彼を覗いたとき、彼は日記を書いていた。
《体の衰えは、まるで砂時計のように感じる。
音もなく、確かに落ちていく》
彼の死は、ちょうど一年後。
眠るような、穏やかな最期になる予定だ。
静かに、そしてゆっくりと“自分を終える”準備をしているように見えた。
ぼくは、伝えることにした。
夢の中で対面した彼は、微笑んで言った。
「やはり、来たか」
「……ご存知でしたか?」
「いや、なんとなく予感があった。
お迎えではなく、予告とは風流だな」
ぼくは頭を下げた。
「あなたにはあと一年の時間があります。
どう過ごすかは、あなた次第です」
彼は少し考えて、こう言った。
「変わらず生きるよ。
慌てて何かを始めても、わしら老人には心臓に悪い。
ただ……感謝を少しずつ、渡していく一年にしようと思う」
それからの彼は、何ひとつ“変わった行動”を取らなかった。
だが、彼の周囲にある「人」と「言葉」は、変わっていった。
介護士に毎朝丁寧にお礼を言い、
同室の仲間の話に耳を傾け、
手紙を書くようになった。
遠方に暮らす娘へ、月に一度。
内容は短く、しかし温かい。
《そちらの風景はどうか。
私は今日も、小さな鳥がベランダに来るのを眺めていた》
ある日、ぼくは意外な光景を見た。
彼が、自室で身なりを整えている。
ワイシャツにベスト、時計も磨いている。
その日は、娘が訪ねてくる日だった。
「今さら格好をつけてもしょうがないだろ」と笑いながらも、
鏡の前で髪を整える彼の背中には、何とも言えない気品があった。
娘は、彼にアルバムを見せた。
「パパ、これはね……孫の入学式の写真なの。ちゃんと挨拶してたよ」
彼は写真を一枚ずつ眺め、
それをそっと胸元に当ててこう言った。
「いい子に育った。ああ、満足だ」
娘は涙をこらえながら、頷いた。
ある夜、彼は誰にも知らせず、
自分の身の回りを静かに整えた。
棚の埃を拭き、日記を閉じ、眼鏡を机に置き、
小さなメモを残した。
《わしは、よく生きた。静かに去る。ありがとう》
翌朝、彼はそのまま眠るように亡くなっていた。
施設の職員は涙ぐみながら言った。
「最後まで自分で立ち上がって、ちゃんと自分を片付けて……すごい人だった」
ぼくは、彼の魂を抱いて天へ還る途中、
なんとも言えない気持ちになっていた。
大きな夢も、派手な人生もなかったかもしれない。
でも、あんなに静かに、きちんと人生をしまう人間がいるのだ。
「尊厳って……静かな、決意なんだな」
ぼくは、思わずつぶやいた。
やってよかった――心の底から、そう思える告知だった。
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