第2話 引き継がれる手紙

その男の人生は、整っていた。


銀行の支店長を勤め上げ、定年退職後も株や不動産の運用で暮らしている。

ひとり暮らしだが、都内の高層マンションに住み、家事も生活もきちんとしていた。

目を細めて新聞を読む姿には、厳格な父親の面影があった。


だが、彼の「家族写真」は、どこにもなかった。


彼は結婚していた。

だが、妻とは20年前に離婚し、娘とも疎遠になったまま――それきりだった。


「今さら会っても、嫌な思いをさせるだけだろうな」


彼は独り言のように呟いたことがある。

ぼくが彼を観察しはじめて、三日目のことだった。


彼の死期は、ぴったり一年後。


今の生活は、誰からも文句のつけようがない。

けれど、どこかに「空白」があった。


ぼくは、伝えることにした。

彼のような人が、どう生きるか――知りたかった。


「……なるほど。いよいよ来たか、という感じだな」


夢の中で、彼は笑った。

怖がるでもなく、取り乱すでもなく、まるで報告を受けたビジネスマンのようだった。


「一年前に知らせるってのは、面白いな。実に、効率的だ」


ぼくは無言でうなずいた。


「君は……“死神”なんだろう? だったら一つ、質問してもいいか?」


「どうぞ」


「“死”の先って、あるのか?」


「……魂は、次の命へと繋がります。ですが、記憶や関係は引き継がれません。

ただ、何かが残ることはある。人の中に、あるいは行いの中に」


彼は黙り込み、そして小さく笑った。


「よし、やることが決まった」


彼はすぐに弁護士を呼び、遺言書の作成に取りかかった。

株式、預金、不動産――それぞれを「娘」へと遺す内容に。


娘の現在の住所を調べるのには、少し苦労していたが、

ある日突然、彼は便箋を開き、手紙を書き始めた。


一枚、二枚、三枚……それは原稿用紙20枚ほどになった。


「今さら父親面するつもりはない。けど、お前が生きる上で、

多少なりとも助けになるものを、残しておきたい。

できれば、どこかでまた、笑ってくれたら嬉しいと思ってる」


封筒には「娘へ」とだけ書かれていた。


半年後。

その手紙は、娘の手に届いた。


連絡が来たのは、それから数日後だった。


「今さら連絡されても困る」と、一度は突っぱねられたらしい。

だが、手紙の内容を読んで、気が変わったという。


「……一度だけ会ってみようと思う。直接、顔を見て話してみたい」


彼は一瞬だけ驚き、すぐに背筋を伸ばした。


「礼儀を忘れるわけにはいかないな」


再会は静かなものだった。


二人は都心のレストランで食事をし、

互いの過去には深く触れず、けれど確かに言葉を交わした。


帰り道、娘はこう言った。


「今の私は、昔のあなたを許すことはできないけど……

“今のあなた”と話せて、よかったと思ってる」


その言葉に、彼は深く頭を下げた。


「ありがとう。それだけで、十分だ」


死の前日。

彼は机に、一通の手紙を残していた。


「人生というのは、不器用な積み重ねの連続だった。

君に何かを残せたなら、それだけで、生きた意味がある気がする」


彼の魂を迎えに行ったとき、ぼくは確かに感じていた。

“遺す”という行為が、人を救うことがあるということ。

たとえ、その結果が完全な和解でなくとも――心に空いた穴を、ほんの少し埋めることができるのだと。


「……やってよかった」


ぼくは、そう思った。


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