感謝編
第1話 未来を照らす言葉
ぼくは、その男を「担当」として割り当てられたとき、
正直に言えば、少しだけ気が重かった。
部屋は綺麗だった。
だが、整いすぎていた。
飾り気のない白い壁に、無音のテレビ。
冷蔵庫には整然とした冷凍弁当が数個並んでいる。
会話はない。音楽も流れていない。まるで、すべてが「止まって」いるようだった。
彼の名前は、北岡。
五十五歳。
都内の中堅企業で働く営業マン。
独身。家族なし。交友関係、なし。
表面上はまっとうに生きていたが、内面は、静かな絶望で満たされていた。
毎朝、自分を奮い立たせるようにスーツを着て出社し、
誰とも目を合わさずに仕事をこなす。
成果を出しても称賛されることはなく、後輩たちは彼を「老害」と呼んで笑っていた。
そして帰宅後、酒も飲まず、テレビも見ず、ベッドに転がって寝る。
何も、感じようとしないように。
そんな彼に「あと1年で死ぬ」と告げて、果たして何が変わるのか。
少し、躊躇した。
けれど、ぼくはやってみることにした。
夢の中で彼と会った夜。
ぼくは、なるべく優しく、真っ直ぐに伝えた。
「あなたの命は、あと一年で尽きます」
彼は、驚いた顔もしなかった。
むしろ、どこか納得したように頷いて、ぽつりと呟いた。
「……ああ、やっぱりな。なんとなく、わかってた気がするよ」
ぼくは戸惑いながら言葉を続けた。
「この一年、どう過ごすかはあなた次第です。
誰に伝えるか、何をするか、どう生きるか――
それを考えられる時間が、まだ、あります」
彼は目を伏せてしばらく黙り、
やがて、自分の手を見ながら言った。
「最後くらい、自分のために生きてもいいかな……?」
ぼくは、静かに頷いた。
次の日から、彼は変わった。
最初は、部屋の掃除からだった。
何年も手つかずだった本棚を整理し、昔読んでいた詩集を机に並べた。
何十年も封を切っていなかった水彩絵の具を引っ張り出し、窓際の小さなキャンバスに絵を描きはじめた。
一週間後には、近所の喫茶店に通うようになった。
ぼくが驚いたのは、そこで彼が話しかけた相手が、
いつも黙々と本を読んでいた若い女性だったことだ。
「この本、好きなんですか?」
彼のその一言から、ふたりの間に小さな交流が生まれた。
毎週日曜日の午後、同じテーブルに座って本の話をする。
彼は笑うようになった。
会話に詰まっても、苦笑しながら話を繋げようとしていた。
さらに驚いたのは、彼が会社に辞表を出さなかったことだった。
「最後まで、今の自分を見届けたいんだ。
でも、言いたいことは、言うようにした」
彼は後輩たちに自分の過去の失敗を語り、
苦しんでいた若手に声をかけ、
見て見ぬふりをしてきた上司の不正に、直接異議を唱えた。
「どうせ死ぬなら、恥も後悔も、置いていきたいじゃないか」
彼は、ほんとうに変わっていった。
一年が経とうとしていたころ。
彼は、あの喫茶店の女性に、最後の手紙を渡した。
「君と話す時間が、とても好きだった。
僕はまもなく旅に出るけれど、あの時間があったおかげで、自分を取り戻せた。ありがとう」
その日の夜、彼は静かに眠るように、息を引き取った。
紅茶の香りが残る部屋で、ぼくは彼の魂を迎えにいった。
「……伝えて、よかった」と、心の底から思った。
変わることを諦めていた人間が、
最後の一年で、こんなにも眩しく生きられるなんて――
死神をしていて、こういう光景を見ることがあるなんて、
ぼくは知らなかった。
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