第3話反転の祈り
椿は、またあの音を聞いた。
教室の奥、誰もいない席から。
その机の下に、**音の形をした“感情”**が、こびりつくように存在していた。
彼女には、それが見えた。
見える、というよりも、“感じ取れる”といった方が近い。
怒りや悲しみが言葉にならずに、感情のまま沈殿したそれらは、
まるで泥水のように黒く、揺れていた。
——ドン。
誰かが、心の中で足を踏み鳴らした音。
でも、それは実際には鳴らされなかった。
椿は、静かにその席に座った。
そして、自分の右足を床につける。
心の奥に、ふいに流れ込んできた“誰か”の記憶。
教科書を破られたこと。
机の中にゴミを詰められたこと。
自分の声が、笑われたこと。
やり返せなかったあの日、下唇を噛みしめたまま、帰り道で泣いた夜。
それらすべてが、**言葉にならなかった“地団駄”**として、
椿の足にまとわりついてくる。
椿は一歩、足を踏み下ろした。
ドン。
その瞬間、空気がざわついた。
誰も気づいていない。
でも確かに、空間の奥に沈んでいた“何か”が解けた。
そして、椿の手のひらから、一つの文字が消えた。
小指の付け根にいつもあったホクロのような傷が、消えていた。
その日から椿は、「音」を探すようになった。
誰かの背後で静かに響く、
感情の残響。
足音になれなかった地団駄の気配。
昼休み、図書室の隅で。
放課後、下駄箱の前で。
職員室の手前の廊下で。
見えない声が、どこかで「踏んでくれ」と訴えていた。
ある日、窓際の席の男子・芹沢の椅子に“音”があった。
彼の机の裏には、何十もの彫り傷が重なっていた。
椿はその場で足を下ろす。
ドン。
芹沢は突然、息を呑んだ。
そのあと、小さく笑った。
「なんか、楽になったかも。……変な話だけどさ、
ずっと誰かに、“心の底を踏まれたかった”気がするんだよな」
その瞬間、椿の左目の色がほんの少し変わった。
黒目の周縁に、わずかに“他人の眼の色”が混ざっていた。
そしてその変化に気づく者は、誰もいなかった。
それでも椿は続けた。
“代わりに地団駄を踏む”たび、誰かは軽くなった。
そのぶん、椿の中には何かが溜まっていった。
記憶でも、痛みでもない。
——誰かの「語れなかった自分自身」が、彼女の中に降り積もっていく。
しかし、ある日。
椿は“音がないはずの人物”から、明確な感情の気配を感じてしまう。
——担任教師、花巻。
普段は淡々と授業をこなし、感情の起伏を見せない彼女。
だがその日、職員室の奥で聞いた。
明らかに強い、深く抑圧された、踏み鳴らされていない怒りの音を。
それは今までのどの“音”よりも重く、深く、
そして——“危うい”音だった。
放課後。
椿は職員室の前に立った。
ドン。ドン。ドン。
花巻のデスクの下から、
足音にならなかった音が、鳴り響いていた。
それは怒りだった。
誰かに対する、深い、けれど決して言葉にならなかった怒り。
その先にあるのは——おそらく、誰かの死だった。
踏むか?
踏まないか?
椿は、迷った。
初めて、躊躇した。
この音を踏めば、きっと彼女は救われる。
でもその代わりに、椿は——何か取り返しのつかないものを失う。
彼女は足を上げた。
そして——
ドン。
花巻の机の下から、黒い影が噴き出した。
一瞬のことだった。
誰も気づいていなかった。
だが確かに、花巻の身体から“何か”が抜け出し、
椿の足元に巻き付いていた。
「ありがとう」
花巻はそう呟いた。
その声は、まるで死者の囁きのようだった。
次の瞬間、椿のスマホの中から、彼女のSNSアカウントが消えていた。
連絡先から、椿の名前が抜け落ちていた。
友人たちの記憶から、椿という存在が“ほんの少し”希薄になっていた。
そして夜、鏡の中の椿の顔が、知らない誰かのものと半分入れ替わっていた。
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