第2話地団駄の場
足を鳴らした翌日から、椿の周囲は微かに変わり始めた。
最初に気づいたのは、教室の壁だった。
掲示物が一枚、消えていた。
月曜の時間割表。
それ自体は何でもない。だが、椿には確信があった。——昨日までは、確かにあったのだ。
次に消えたのは、隣の席の名前。
出席簿に印刷されていた名前のインクが、
にじんで、ぼやけて、読めなくなっていた。
だが、周囲の誰もそれを気にしていない。
椿だけが、それを“異常”だと感じていた。
——何かが削られている。
言葉の形をした、存在そのものが。
彼女は再び、旧校舎の音楽室跡へ向かった。
足元からの“あの音”が、再び鳴る。
ドン。
ドン。
ドン。
まるで“呼ばれている”ようだった。
彼女は、扉の取っ手に手をかける。
——が、そこで目の前の床が崩れた。
ほんの一瞬、世界が上下逆転したような感覚。
気がつくと椿は、知らない部屋に立っていた。
床はコンクリート。だが、やけに柔らかく、足音が深く沈む。
天井には教室の天井が、逆さまに張りついている。
そして壁中には、誰かの名前が、何十、何百と書かれていた。
けれどすべて、線で消されていた。
部屋の中央に、椅子が一脚あった。
その上に、何かが座っていた。
誰か——いや、「何か」だ。
輪郭があいまいで、顔も、服も、にじんで見えない。
その存在は、まるで“途中で語るのをやめられた人間”のようだった。
「きみ、まだ名前が残ってるんだね」
それは、確かに椿に話しかけてきた。
椿は何も言えなかった。
声が出ない。言葉が見つからない。
自分の名前を口にしようとすると、喉が塞がるような圧迫感。
「ここはね、“物語にされなかった感情”たちが最後に踏み鳴らす場所なんだよ」
「ぼくたちはみんな、言葉にならなかった叫び。地面の下で、ただずっと、足を鳴らしていたんだ」
その存在は、立ち上がった。
音がした。
ドン。
空間が揺れる。
壁の名前たちが、一斉にざわついたように見えた。
「忘れないでね、椿ちゃん」
「きみも、ここで名前を失うんだから」
——その瞬間、椿の足元に、見覚えのある文字が浮かび上がった。
——わたしをふまないで。
前回見たのと同じ言葉。でも、今度は続きがあった。
……でも、わたしをふまないと、きみは帰れない。
椿は、自分の足元を見つめた。
そこに浮かぶ、淡い発光の文字。
……でも、わたしをふまないと、きみは帰れない。
迷いはなかった。
足を上げ、彼女は静かにそれを——
踏んだ。
ドン。
部屋が反転した。
床と天井が入れ替わり、記憶のような映像が流れ込んでくる。
忘れたはずの感情たちが、
誰かに言いかけて、言えなかった一言が、
笑うふりをして隠した怒りや悲しみが、
——すべて、椿の中に注ぎ込まれていった。
彼女は震えた。
こんなにも、感情というものが重いなんて。
そして、名前が——
自分の名前が、体の外側から削れていくのを感じた。
教室に戻ると、誰も彼女を見なかった。
椿に視線を向ける者はいない。
声をかけても反応しない。
スマホのメモには、自分の名前が入力できなくなっていた。
鏡に映った自分の顔が、ほんの少し、にじんでいた。
その夜、椿は夢を見た。
無数の足音が響く、果てしない暗闇。
名もなき者たちが、地を踏み鳴らし続けている。
誰一人、顔を持たず、言葉も発さず、ただひたすらに——
ドン。ドン。ドン。
目覚めたとき、椿はふと、
自分の名前を思い出そうとして、
——思い出せなかった。
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