第4話地団駄の継承


椿は、どれくらい「踏んだ」のか覚えていなかった。


廊下で。

校庭で。

教室の片隅で。

誰かの記憶の底で。


地団駄を踏むたびに、誰かの痛みは静かにほどけていった。

その代わりに、椿の中に“誰か”が溜まっていく。

怒りや悲しみではなく、存在の輪郭そのものが、彼女の中に沈殿していくようだった。


気づけば、彼女の周囲は少しずつ「欠けて」いた。


クラスメイトの顔が、曇りガラスの向こう側みたいにぼやけている。

廊下の窓の外には、何もない白い空間が広がっている。

スマホの連絡先は“自分の名前”だけが残り、あとはすべて空白になっていた。


それでも、椿の足音だけは、はっきりと響いた。


ドン。ドン。ドン。


彼女が“踏まなければ”、

この場所から自分も、世界も、消えてしまう気がした。


教室に残っている椅子は、たった三脚になっていた。

誰が座っていたのかも、思い出せない。

黒板には、消えかけたチョークの跡だけが残っていた。


椿はまた、足を上げた。

理由なんて、もうなかった。


ドン。


地面を鳴らすと、空気が震えた。

天井から、蛍光灯が一つ、ぱたりと落ちた。

何かがひとつ、世界からほどけた音だった。


「……わたしは、誰の地団駄を踏んでるんだろう」


自分自身の声も、少しにじんで聞こえた。

自分自身の姿も、うっすらと透けていた。

手のひらには、もはや指紋もなかった。


ふいに、誰かの声がした。


「椿、踏んで」


振り向くと、そこにはもう一人の椿が立っていた。


顔は同じ。

制服も同じ。

でも、彼女の目だけは、真っ黒に塗りつぶされていた。


もう一人の椿は、笑った。

そして、足元を差し出した。


「わたしのために、踏んで」


椿は、震えながら、その足元を見つめた。

そこには、消えかけた自分自身の“地団駄にならなかった感情”がうごめいていた。


もしこれを踏めば、たぶん——

自分の最後の“存在”までも、消える。


でも、踏まなければ、

もう彼女には何も残らない。


椿は、そっと自分の足を上げた。

指先が、もう震えていた。


目の前の“もうひとりの椿”は、にこにこと笑って待っている。

その足元には、

ずっと言えなかった本音。

隠してきた怒り。

飲み込んだ涙。

見て見ぬふりをした寂しさ。


ぜんぶ、ぜんぶ、

かたちにならなかった地団駄が、渦巻いていた。


椿は、静かに目を閉じた。

そして——


ドン。


踏んだ。


その瞬間、世界が大きくひしゃげた。

音が潰れ、色が消え、空間がぐしゃりと丸まった。


椿の身体は、音と一緒にばらばらにほどけた。

誰も見ていなかった。

誰も気づかなかった。


ただそこに、ひとつだけ、踏みしめた跡が残った。


まるで、

かつてここに、

椿という人間が存在していたことを、誰かに伝えようとするかのように。


でも、それもすぐに、風にさらわれて消えた。


教室は空っぽだった。

椅子も、机も、窓も、天井も、

すべて白い霧の向こうに沈んでいった。


そして最後に、かすかな足音だけが響いた。


ドン。ドン。ドン。


それは、誰のものでもない。

ただ、そこにあった。


世界が、静かに終わっていった。

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地団駄 @otatsu_

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