地団駄

@otatsu_

第1話踏まれなかった少女


椿は、誰からも名前を呼ばれたことがなかった。


正確には、名簿にはある。出席も取られる。

だが、その声は、決して彼女の“存在”を指してはいなかった。

呼ばれた気配はあっても、顔を上げると、視線は別の場所を向いている。


それが、日常だった。


彼女は目立たなかった。

容姿も、成績も、性格も、平均のなかに沈み込んでいた。

怒らず、笑わず、泣かず、喜ばず、ただ「そこにいた」。

先生から注意されることもなければ、友人とトラブルになることもない。

卒業アルバムには写っている。だが、ページの端。ピントも少し外れていた。


椿は、生まれてから一度も「主役」になったことがない。

自分の人生ですら、それを実感できたことは一度もなかった。


けれど、彼女は、それに不満を抱いたことがなかった。


——いや。

もしかしたら、それが「椿という個人」の最大の異常だったのかもしれない。


椿がそれを初めて聞いたのは、

廊下を歩いていた、ある昼休みのことだった。


誰もいない旧校舎の一角。

かつて音楽室だった場所の前で、

彼女の足元から、かすかな震動が響いた。


——ドン。


たった一度。

しかし、確かにそれは「誰かが足を踏み鳴らした音」だった。


立ち止まった椿は、周囲を見渡す。

誰もいない。

空調の音すらない。

窓も閉まりきっていて、風の通り道もない。


——ドン。ドン。


今度は連続だった。

音は、彼女の足元から聞こえた。

まるで、床下から何かが、彼女の足に向かって“語りかけている”かのように。


その瞬間、彼女の耳に、あるフレーズがよぎった。


「語られなかった感情は、

 物語になれなかった叫びとして、

 地の底に蓄積する」


——いつだったか、図書室の古い本の隅に書かれていた言葉だ。

落書きのように走り書きされたページの断片。

誰のものでもなく、誰のためにも書かれていない文字。

けれど、それはなぜか、今の自分のことのように思えた。


椿は、足元に意識を向けたまま、静かにひざを折った。

床に手を触れる。冷たいコンクリートの感触。

その下に、何かが眠っている気配。

いや——誰かが、そこに「残っている」ような。


ふと、床の隅に何かが見えた。

薄く擦れた文字。


——わたしをふまないで。


それは、叫びではなく、囁きだった。

怒りでも、呪いでもなく、ただ“見つけてほしい”という祈り。


椿は立ち上がり、ほんの少しだけ、右足に力を込めた。


ドン。


教室の空気が、ほんのわずかに震えた。

誰かの記憶が、微かに揺れた。

彼女の心の中に、はっきりとした感覚が宿る。


——ああ、私は、

ずっと「踏み鳴らしたかった」んだ。


この胸の奥で、言葉にならない感情が、

物語にもならないまま、

ただ地面の底でうずくまっていたんだ。


もう一度、足を鳴らす。


ドン。


次の瞬間、彼女の足元にあったはずの影が、すっと、形を変えた。


それは、誰のものでもない「地団駄」のかたちをしていた。

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