第十八話 崇拝の裂け目
教団の制度は日を追うごとに厳格さを増し、信徒たちは日常のあらゆる行為に“無排泄的精神”を求められるようになっていた。
美苑は中心に立ち続けていたが、その完璧な振る舞いが逆に、徐々に“神性”の重さとして彼女自身を圧迫し始めていた。
ある日、教団内で“浄者の集い”と呼ばれる非公開の黙想会が開かれた。
それは、各階位における信仰深化の一環であり、美苑の神性について詩的に語り合い、沈黙の中で“痕跡なき存在”を想像する儀式でもあった。
若月はその集いのあと、一人日誌を開いてふと筆を止めた。
ページの端に、誰にも見られないように、こう書きつけた——
「美は、否定の果てにあるのか? それとも、受容の始まりにあるのか?」
それから数日、若月の様子を見ていた他の信徒たちの間にも、静かなざわめきが広がりはじめた。
「最近、若月さんの日誌が柔らかくなった気がする」
「先週の集いで、目を閉じて何か涙ぐんでいたような……」
誰かが崩れかけている気配は、言葉にしないまま波紋のように広がる。
そしてある夜、台所で食器を洗っていた信者の一人が、ぽつりと仲間にこぼした。
「……私、時々、トイレに行ってる。ほんの少しだけ。でも、それを書かないでいるの。日誌には」
その告白は、囁きのように静かだったが、他の者たちの目が見開かれるのを感じた。
「私も……実は」
「私も」
それは、罪の共有であり、共犯の安心だった。
信仰を持ちながらも、そのすべてを実践できない者たちが、初めて自分の“矛盾”を他者と共に分かち合った瞬間だった。
それから数日後、若月は信徒会議の場で発言した。
「この教団の理念は美しい。だが、私たちはあまりに“否定”に傾きすぎているのではないか?」
沈黙が落ちた。
若月の言葉は反逆ととられかねなかった。
「つまり?」と鈴木が問い返す。
「美苑様のような、無排泄の体現者がいることを我々は信じている。しかし、全員がそれを“演じ続ける”ことで、逆に“現実との乖離”が加速しているように思えるのです」
その場には動揺が走った。信徒の中には、密かに「清浄日誌」に嘘を書いている者もいた。
“完全に排泄を断つ”という生活は、現実的には限界があったのだ。
その夜、美苑は密かに鈴木に告げた。
「私……最近、夢を見るの。夜中に、ひとりでトイレに駆け込む夢。しかも、そのときの私は笑っているのよ」
鈴木は黙っていた。
彼の中でも、信仰と現実の乖離が膨らみ始めていた。
“可愛い女の子はうんこをしない”——それが彼の出発点だった。
だが今、彼の目の前にいる美苑は確かに“可愛い女の子”だった。そしてその彼女が“夢の中で排泄する”という告白をする。
信仰が壊れたのか?
それとも、彼女が人間だったというだけなのか?
翌日、一人の器(ヴェッセル)が倒れた。
病院に運ばれた彼女の診断は「重度の消化器障害」。
長期間の排泄抑制と食事制限が原因だった。
“痕跡を残さない”という理念は、皮肉にも信徒たちの身体を蝕みはじめていた。
信仰の中にある、その根源的な矛盾。
——可愛い女の子はうんこをしない。
——でも、実はする。
その矛盾には、まだ誰も、明確な言葉を与えようとはしなかった。
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