第十九話 ゆらぎの教祖

 鈴木は、自室に一人で座っていた。

 机の上には、信徒から提出された清浄日誌の束。

 それらには、どれも整然と記録された“無”の証しが並び、まるで予定調和のように完璧だった。

 しかし、その完璧さが、鈴木の胸に鉛のような重さを残していた。


 美苑の言葉が頭から離れなかった。


「夢の中で排泄する私を、私自身が笑っているの」


 ——それは、苦しみからの解放なのか。それとも、信仰の崩壊なのか。


 かつて鈴木が見ていた理想の像は、排泄のない少女。

 痕跡を残さない存在。

 そして、その理想が世界と乖離するほど、美しかった。


 だが、今やその理想の器は、彼の目の前でひび割れはじめている。

 それは美苑だけではなかった。

 若月、そして他の信徒たちの囁き。

 制度の中で育った虚構。

 

 (俺たちは……何を守ろうとしていた?)


 鈴木は、清浄日誌の束を両手で包み込むように持ち、そっと目を閉じた。


 真実が必要なのか。

 それとも、美しい嘘を守り続けることこそが、教祖としての務めなのか。


 ふと、一つの記憶がよぎった。

 綾子の言葉。


「人間ですもの」


 あの言葉を、自分は拒んだ。

 だが今なら分かる。

 拒絶していたのは、彼女ではなく、自分自身の脆さだった。


 ——世界は、排泄から逃れられない。

 ——だが、それを“認める”ことでこそ、初めて“選べる”美しさがあるのではないか?


 その夜、鈴木は一つの小さな演説文を書いた。


 それはまだ誰にも見せられない、心の中の覚書だった。


 《私たちは無垢を求めてきた。しかし、排泄する身体のまま、なお美しくあることはできないのだろうか。》


 それは“信仰”の死ではなかった。

 むしろ、揺らぎを抱えたまま生きる者のための、新たな道の始まりだった。


 だがその道は、教祖としての鈴木に、苦悩と試練を突きつけることになる。

 まだ、誰にも知られていない——“再定義”の物語が、静かに芽吹き始めていた。


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