第十六話 神なき社会のまなざし
排泄否定教団――正式名称を「無垢信仰会」と称するその集団は、ネット掲示板の一角から噂され始めた。
「うんこをしない女を崇める謎の団体があるらしい」
「“神の器”を名乗る女性が本当に存在している」
「人類を“無排泄化”する運動を起こしているらしい」
最初は与太話だった。オカルトの一種として、あるいは性癖の暴走として、嘲笑混じりに扱われていた。だが、その反応の中に、わずかな共感が紛れ込むようになるのに、時間はかからなかった。
「彼女の前では屁ひとつこけない」「理想の女を体現してる」
「わかる……痕跡を残さない存在に惹かれるのって、何か美学だよな」
匿名の投稿が連なり、その美学に名前が与えられた——“清潔形而上主義”。
やがて、週刊誌がその存在を取り上げた。
『現代の神話——「うんこをしない女神」を信奉する若者たち』
グラビアには、美苑の白いワンピース姿が、後ろ姿だけぼかして掲載されていた。
記事には、およそ信じがたい内容が綴られていた。
「我々は人類が“汚物”から解放される進化の過程にある」
「排泄という生理現象は、意志の力によって否定できる」
「現に、彼女は生まれてから一度もそれを行っていない」
当然、専門家は異議を唱えた。
医師や生理学者はテレビ番組で一斉に「科学的にあり得ない」と語り、SNSでは医クラと呼ばれるアカウントたちが論破合戦を繰り広げた。
だが、騒ぎが大きくなるほどに、信徒の熱は高まっていった。
一方、その報道を見ていた綾子は、画面の向こうで何も言わずにいた。
部屋の明かりを消して、テレビの光だけが彼女の顔を照らしていた。
——美苑。
その名前に覚えはなかった。だが、鈴木が話していた「彼女」の姿と、テレビに映る女性の輪郭が一致した気がした。
(……あの人は、私を超えるために選ばれたの?)
そう思ってしまうほどには、綾子の中にも揺らぎがあった。
鈴木が去ったあの日から、彼女はずっと考えていた。
「私は“人間ですもの”と言った。あれは本音だった。だけど、彼の目の中にいた“私”は、そうじゃなかった」
鏡の前に立つ自分。
その顔。
その身体。
そして、その中にある、言葉にできない“なにか”。
綾子はつぶやいた。
「私は、本当に人間なのかしら」
信仰はすでに教団のものだった。
だが、揺らぎは彼女の中にも波紋を広げていた。
社会がその存在に気づき始めたとき、最も深く動揺していたのは、かつて“神”と見なされた彼女自身だった。
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