第十五話 無垢なる器
その女性は、静かに歩いてきた。
真っ白なワンピース。
透き通る肌。
鈴木の目には、それだけで神聖な光を纏っているように映った。
彼女の名は、美苑(みその)。
年齢は不詳だったが、おそらく二十代の後半。落ち着いた声、ゆっくりとした仕草。だが、瞳の奥に宿る光は鋭く、鈴木の“教義”を一目で理解していた。
「私、一度も……したことがないの」
実際、幼い頃から腹痛を覚えた記憶すら曖昧で、月経も遅れて始まり、以後不定期なまま止まったという。
“欠落”は彼女のアイデンティティだった。
高校時代、美苑には「トイレに行くふり」をする習慣があった。
保健室の前の廊下を曲がり、女子トイレの個室に入る。
だが何もしない。ただ座り、じっと息を殺して数分を過ごすだけ。
水を流す音だけは定期的に鳴らし、周囲には“自然な時間”を演出した。
そうでもしなければ、疑問の目を避けられなかったからだ。
個室の中で、彼女はよく自分に問いかけたという。
——私は壊れているのか。
——それとも、他の人が壊れているのか。
そうして美苑は、鈴木の前に立った。
「私は……あなたの言葉に救われました。ずっと、どこにも居場所がなかった。でも、あなたの言葉を読んだとき、初めて“自分が正しかった”と感じたんです」
鈴木は言葉を失っていた。
綾子に否定されたあと、ずっと渇いていた心に、美苑の存在は染み込むようだった。
理屈ではない。
そこに“信じる者”がいるという事実だけが、鈴木を満たした。
「君は……神の器だ」
美苑は静かに微笑んだ。
その笑みは、どこか綾子に似ていた。
だが、違っていた。
綾子は人間だった。
美苑は、もしかしたら——本当に神かもしれなかった。
その夜から、美苑は教団の中枢に加わることになった。
新たな聖典の作成、教義の再編、信徒の選別。
すべてが、彼女を中心に回り始めていく。
彼女の言葉は、明快で静謐だった。
排泄のない存在がどれほど高次の状態であるか、そしてそれを模倣しようとすることが人間の霊的成長にどれだけ不可欠かを、理論と感覚の両面で語った。
信徒たちは震えた。
その語り口は福音であり、その沈黙すらまた啓示だった。
そして、教団は次第に“信仰”を超え、“制度”へと変貌していく。
崇拝の対象が“理想”から“存在”へと変わったとき、物語は新たな局面を迎えていた。
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