第九話 初めてのお使いと町の視線

あの毛糸まみれの大騒動――もとい、魔法の糸車の修理大作戦――から数日。工房の中は、ドルダの(半ば強引な)手伝いもあって、なんとか元の(雑然とした)状態を取り戻していた。やれやれ、これでようやく平穏な日常が……と思いきや、エリアーナは新たな問題に直面していた。


食料がない。

パンも、干し肉も、野菜も、ほとんど底をついている。あの騒動で、すっかり買い出しのことを忘れていたのだ。


「……はあ」


エリアーナは、空っぽになった食料棚の前で、本日何度目か分からない溜息をついた。こうなると、町まで買い出しに行くしかない。ストーンクレストの町。工房からは歩いて小一時間ほどの距離だが、あの石畳の道は足に響くし、何より、エリアーナは人混みが得意ではないのだ。元クレリックのくせに、と言われそうだが、仕方がない。今の彼女は、ただの引きこもり薬草研究家なのである。


「……仕方ない、行くか」


重い腰を上げ、出かける支度を始めた、その時だった。ローブの裾が、くい、と軽く引っ張られた。見ると、リクが心配そうな、それでいて期待に満ちたような顔で、エリアーナを見上げていた。その尖った耳が、わずかに前後に揺れている。


「……ん? どうした、リク」

エリアーナが尋ねると、リクは、外へ続く扉とエリアーナの顔を交互に指さし、そして、自分の胸をとん、と叩いた。「いく?」と言いたいらしい。なるほど、一緒に行きたい、ということか。


エリアーナは少し迷った。町は工房とは違う。見慣れないもの、聞き慣れない音、そして、たくさんの人々。リクにとっては刺激が強すぎるかもしれない。それに、あのふわふわの耳と尻尾だ。町でどれだけ目立つか……。

だが、リクのキラキラとした瞳に見つめられると、断るのも気が引けた。この工房に来てから、リクはずっとこの敷地から出ていないのだ。たまには外の空気を吸わせてやるのも、悪くないのかもしれない。


「……分かった。一緒に行くか。ただし、私のそばから離れるなよ」

エリアーナが言うと、リクはぱあっと顔を輝かせ、尻尾を嬉しそうに左右に振った。まるで、お散歩に連れて行ってもらえる子犬のようだ。まったく、現金なものである。


こうして、エリアーナとリクの、初めての二人揃っての町への買い出しが決定した。

工房を出て、緩やかな坂道を下っていく。道の両脇には、この辺り特有の、青い苔に覆われた岩や、奇妙な形をした木々が生えている。リクは、見るものすべてが珍しいらしく、きょろきょろと辺りを見回し、時折、地面の匂いを嗅いだり、蝶々を追いかけようとしたりして、エリアーナに軽く窘められていた。


やがて、ストーンクレストの町の入り口が見えてきた。石造りの素朴な門をくぐると、途端に空気が変わる。石畳の道、軒を連ねる木造の家々、パンの焼ける香ばしい匂い、鍛冶屋から聞こえる金属音、そして、行き交う人々のざわめき。人間、ドワーフ、たまに見かけるハーフリングや、まれに優雅なエルフの姿も。まさに、ファンタジー世界の縮図のような光景だ。


リクは、その喧騒に少し気圧されたように、エリアーナのローブの裾をぎゅっと握りしめた。そして、エリアーナも気づいていた。道行く人々が、ちらちらとリクに視線を送っていることに。それは、以前感じたような侮蔑や恐怖の視線ではない。どちらかというと、「あら、珍しい」「キツネの子? 可愛いわね」「どこの子かしら?」といった、純粋な好奇心、あるいは物珍しさからくる視線だ。悪意はないのだろう。だが、好奇の視線というのも、向けられる側にとっては、決して心地よいものではない。リクもそれを感じ取っているのか、エリアーナの後ろに隠れるようにして歩いている。


「……大丈夫だ」

エリアーナは、リクの小さな手をそっと握り、人混みをかき分けるようにして、目的のパン屋へと急いだ。


パン屋は、焼きたてのパンの良い香りで満ちていた。店主の恰幅の良い奥さんが、愛想よく迎えてくれる。

「はい、いらっしゃい! ……あらあら、エリアーナさんじゃないの。珍しいねえ、お連れさんがいるなんて」

奥さんは、エリアーナの後ろに隠れているリクに気づき、目を細めた。

「まあ、なんて可愛い子! ふわふわのお耳! もしかして、フィンブルさんの隠し子かい?」

悪気のない、昔からの冗談だ。祖父は生涯独身だったはずだが、なぜかそんな噂がまことしやかに囁かれていた。


「違いますよ、オルガさん」

エリアーナは、少しむっとしながらも、きっぱりと否定した。そして、リクの小さな肩を抱き寄せ、自分の前に立たせるようにして、言った。

「この子は、リク。私の大事な助手です」


その言葉に、オルガさんは少し驚いたような顔をしたが、すぐに人の良い笑顔に戻り、「へえ、助手ねえ! そりゃあ頼もしいね!」と言って、リクに焼きたての小さなパンを一つ、おまけしてくれた。リクは、まだ少し緊張していたが、パンを受け取ると、ぺこりとお辞儀をした。


パンと、それから他の店で必要なものをいくつか買い込み、二人は工房への帰り道を歩いていた。

行きとは違い、リクはエリアーナの少し前を、ぴょこぴょこと跳ねるように歩いている。時折、エリアーナを振り返っては、嬉しそうに笑いかける。好奇の視線はまだ感じるが、もうそれほど気にしていないようだ。むしろ、エリアーナに「助手」だと紹介されたことが、誇らしかったのかもしれない。


エリアーナは、そんなリクの後ろ姿を見ながら、自分の心境の変化に少しだけ驚いていた。

以前の自分なら、人々の視線を避けるように、足早に町を通り過ぎただろう。リクを庇うどころか、一緒にいることすら躊躇ったかもしれない。だが、今は違う。この小さな「助手」を守りたい、という気持ちが、自然と湧き上がってきたのだ。

――私も、少しは変わったのかもしれないな。

エリアーナは、ほんの少しだけ、そんなことを思った。足の痛みも、なぜか帰り道の方が軽く感じられるような気がした。

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