第三話 薬草の香りとピクピク耳
工房での奇妙な同居生活、二日目。
相変わらず、空は気まぐれな様子を見せている。朝から晴れたかと思えば、昼過ぎにはまた厚い雲が空を覆い始めていた。まあ、天気なんてものは、エリアーナの気分と同じくらい、変わりやすいものなのかもしれない。
エリアーナは、作業台の上で薬草をすり潰していた。石製の乳鉢の中で、緑色の葉が少しずつペースト状になっていく。これは彼女自身の足の傷に使うための、特製の軟膏作りだ。女神シラーナの奇跡はもはや期待できないとしても、薬草の知識だけは、元クレリックとしての数少ない財産である。
工房の中には、独特の青臭いような、それでいてどこか清涼感のある匂いが満ちていた。使っているのは、鎮静効果のある「月見草(ルナリア)」の葉と、炎症を抑える「竜胆(ドラゴンズブラッド)」の根、そして、これは祖父のメモにあったのだが、ごく少量加えると治癒力を高めるという、珍しい「星屑苔(スターダストモス)」の粉末だ。最後の苔は、夜になると本当に星屑のようにキラキラと光る、ちょっと不思議な植物である。こういうところが、この世界の面白いところでもあるのだが。
ふと、視線を感じた。
作業台の向こう側、床に座って壊れた鳥のカラクリをいじっていた小さな訪問者が、顔を上げてこちらを見ている。いや、見ているというよりは、鼻をひくつかせている、と言った方が正しいか。キツネのような尖った鼻先が、くんくんと動いている。
「……なんだ、気になるのか?」
エリアーナは、手を止めずに声をかけた。別に返事を期待したわけではない。ただの独り言のようなものだ。
ところが、あの子は、おずおずと立ち上がると、エリアーナのいる作業台の方へ近づいてきたのだ。まだ警戒心は解けていないようで、距離を保ったまま、作業台の上を興味深そうに覗き込んでいる。その尖った耳が、ぴくぴくと絶え間なく動いていた。まるで、音や匂いを懸命に拾おうとしているかのようだ。
「これは、薬だ。私の足の」
エリアーナは、乳鉢を指してぶっきらぼうに言った。子供相手に、呪いだの古傷だのと説明するのも気が引ける。
子供は、こくりと小さく頷いたような気がした。そして、作業台の上に並べられた、まだ使っていない薬草の束に、その黒い瞳を向けた。特に、鮮やかな青紫色の花をつける竜胆(ドラゴンズブラッド)と、銀色に光る星屑苔(スターダストモス)に、興味を引かれている様子だ。
エリアーナは、黙々と軟膏作りを再開した。子供は、しばらくその場で作業を見ていたが、やがて、おもむろに作業台に置かれていた薬草の束の一つに手を伸ばした。それは、エリアーナが鎮静作用の補助として少量だけ用意していた、「眠り猫の髭(スリーピーキャッツウィスカー)」という、細長い葉を持つ地味な薬草だった。
「おい、それは……」
勝手に触るな、と言いかけて、エリアーナは言葉を飲み込んだ。子供は、その「眠り猫の髭」の束を手に取ると、顔を近づけて、ふんふんと熱心に匂いを嗅いでいる。そして、何かを確かめるように、エリアーナの顔と、乳鉢の中のペーストを交互に見た。
次の瞬間、彼は、その「眠り猫の髭」の束を、エリアーナに向かって、そっと差し出したのだ。まるで、「これも使うんじゃないのか?」とでも言いたげに。
エリアーナは、思わず目を見開いた。
確かに、「眠り猫の髭」は鎮静効果を高める補助ハーブだ。今回の軟膏に必須ではないが、加えればより効きが良くなる可能性はある。だが、そんなことは、専門家でもなければ分からないはずだ。この子は、まさか匂いを嗅いだだけで、その薬効を…?
「……お前、もしかして……鼻が、すごく利くのか?」
エリアーナが尋ねると、目の前の子供は、きょとんとした顔で首を傾げた。そして、差し出した「眠り猫の髭」を、もう一度くんくんと嗅ぐと、今度はエリアーナの足――傷のある方の足――の匂いを嗅ぐような仕草をした。なるほど、薬草の匂いと、傷(あるいは呪い)の放つ微かな匂いを嗅ぎ分けている、ということか。獣人ならではの、鋭敏な感覚なのだろう。
エリアーナは、差し出された「眠り猫の髭」を、黙って受け取った。子供の手は、まだ少し泥で汚れていたが、温かかった。
「……そうだな。これも少し、入れてみるか」
エリアーナは、まるで自分に言い聞かせるように呟き、受け取った葉を数本、乳鉢に加えた。
作業を続けるエリアーナの横顔を、子供は満足そうに見上げていた。そして、そのふわふわの尻尾が、ゆっくりと左右に揺れているのを、エリアーナは見ないふりをした。
薬草の香りが満ちる工房。言葉はなくても、確かな交流が生まれた瞬間だった。エリアーナの心の中に、また一つ、小さな温かい灯りがともったような気がした。
それは、女神の奇跡とは違う、もっとささやかで、けれど確かな温もりだった。
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