第二章「船出」
一
六月末日。
難波に出来た人だかりは、興味津々に二隻の船へ視線を注いでいる。船の往来に慣れている土地柄とはいえ、これほどの船はなかなか目にしないのだろう。皆が空を仰ぐようにしながら、高くそびえる帆柱の先を見つめていた。
七月三日。出立はこの日となった。船に吸い込まれていく荷物を眺めていると、ふと人だかりが二つに割れた。近侍に付き添われた男が一人、こちらに向かってくる。皇太子・
「
「見送りか。仰々しいのお」
「なに、難波の偵察のついでではないのか? ほら、先の宮の
「シッ、聞かれるぞ」
見物人がこそこそと顔を突きあわせる。しかし波の音も気にせぬ素振りの大海人は、真っ直ぐに博徳たちの方へ歩いてくる。そして、石布の前で礼をすると、「太子から見送りを仰せつかりましたもので」と視線を上げた。なるほど、
「直々のお見送り、身に余る光栄でございます」
石布が丁寧に挨拶を返す。それから二、三言よくある言葉を交わしていた大海人であったが、荷物を詰め込む水夫の雑踏に紛れるように「一つ」と声を低くした。
「
あの
「先の
「ああ、
答えたのは副使の吉祥だった。大海人はご名答と言いたげに微笑む。
「今も唐にて勉学に励んでいるはずなのです。もし、向こうで新羅や百済の学友などを作って居られたならば、そこから各国の話を聞きだして貰えないかとのこと」
「定恵殿やそのご学友を通して、ということですか?」
「ええ。国というのは、常に情報を統制するものです。外交ならば尚更」
大海人は強い瞳で念押しした。その「国」という言葉には倭の朝廷も含まれていたが、この時の遣唐使一行は気づく由もなかった。
「学生たちはまだ若いでしょうから。役人に話を聞くより、ずっと有り体に話してくれるかと」
「なるほど。そういうことでございますか」
石布はそう返したが、博徳はどうも納得がいかなかった。学生云々に対してではない。たったこれだけのために大海人が派遣されてきたことに対して、だ。
案の定、大海人は声を潜めて「それと」などと言葉を付け足した。
「定恵殿の帰国を今しばらく待たせるように、と」
博徳らは目を見張った。唐に残された留学生は、次の遣唐使船で帰国することが通例となっている。そのため、前回の船で渡唐した定恵らは博徳たちの船で帰国するものだと思っていた。何も言えずにいると、大海人は「いえ、帰りたいという留学生は連れてきてもらって構わないのですが」などと顔を離す。
「定恵殿だけはどちらにせよ帰国させぬように、とのことです」
言葉を失った。一行は引きつった笑みで承諾することしか出来なかった。一体どういうことなのだ。実の息子であろう。
大海人は当たり障りのない挨拶を述べてこの場を立ち去ろうとする。聞きたいことは沢山あったが、今ここで話しかけても答えてもらえるだろうか。いくら遣唐使とは言え、皇子にズケズケと質問するなど烏滸がましい。しかし、今聞かなければ後々火種になるかもしれない。しばらく迷った末、博徳は去りゆく大海人に思い切って問いかけた。
「一つだけ確認させてください。それは確かに、内臣のご意向なのですね?」
大海人は何も答えなかった。何も答えはしなかったが、彼は一つ笑みで応えた。それが是を表していることは、葛城に対峙した博徳には手に取るようにわかった。やはり似ているところがある。あの皇太子に。
荷物が乗り切ったところで、人員が船へと上がり始める。見送りの者たちに頭を下げ、博徳ら使節も波打ち際へ向かった。石布と共に第一船へ乗り込もうとした時、掠れた声の女が一人の
「達者でやるんやで。辛いことがあったら帰ってきてええでな。あんたが帰ってくるまでしっかり生きとるでな」
皺の刻まれた手の先には黒く変色した爪が見える。
「大使さま、よろしくお願いしますえ」
留学僧の母が石布へ声をかけると、役人が「気軽に寄るな」と入り込んでくる。しかし、石布はそれを制止して母子二人へ目線を合わせた。
「安全な船旅にしなくてはね。きっとまた会えますよ。彼も立派に育って帰ってくることでしょう」
母は何度も頭を下げながら役人に引き剥がされていった。船に乗り込んでからも、その留学僧は懸命に手を振り続けている。
博徳は船のへりに立つと、静かに大海人へ目をやった。彼は観衆の前でこちらを見上げ、耳飾りを日に煌めかせている。澄み渡る瞳に揺らめくのは雲の影か。時折映り込む青空の色までが鮮明に見えて不思議な心地がする。鋭い目元は葛城とよく似ているが、大海人はまた違う場所を見つめているように思えた。難波。留学僧。鎌足からの伝言······。何か捉えどころのない胸騒ぎがして、大海人から目が離せなくなる。
「重しをあげー! 縄を引けー!」
ガクンと足元が揺らいだので慌ててへりに捕まる。水夫たちが一斉に声を上げ、櫂の雫を巻き上げた。
「そーれい! そーれい!」
鳴り響く太鼓と呼応する男たちの声が博徳の思考を断ち切る。
しかし押し詰め状態の留学生たちにあっけなく移動を阻まれた。皆泣くものかと唇を噛んでいるが、濡れた目尻は隠せていなかった。浜辺から聞こえる数々の呼び声に己の名を探している。ちぎれそうなほどに腕を振る漆部の少年を横目に、博徳はそっと片手を胸に添えた。上着の上から握りしめたのは、妻・
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