第二章「船出」


 六月末日。坂合部石布さかいべのいわしき率いる遣唐使一行は難波なにわへと入った。ここは古くから船の往来が多く、優秀な港として重宝されてきた。ちょうど飛鳥へ向かう大和川やまとがわの下流にあたり、瀬戸内海も外海ほど波が高く無い。ここから海岸伝いに下っていけば、さほど荒れることもなく筑紫に着く。途中、潮が渦巻いている箇所があり、そこにはまると中々抜け出せぬのだが、それもまた手慣れた船頭がいれば案ずることはないだろう。そう思っていたのだが、いざ目にした船の大きさに、これは軽く操れるものではないと悟ってしまった。

 難波に出来た人だかりは、興味津々に二隻の船へ視線を注いでいる。船の往来に慣れている土地柄とはいえ、これほどの船はなかなか目にしないのだろう。皆が空を仰ぐようにしながら、高くそびえる帆柱の先を見つめていた。


 七月三日。出立はこの日となった。船に吸い込まれていく荷物を眺めていると、ふと人だかりが二つに割れた。近侍に付き添われた男が一人、こちらに向かってくる。皇太子・葛城かつらぎにそっくりな顔立ちと、海風に翻る鮮やかな青の衣。数度だけ目にしたことがある葛城の弟であった。

大海人皇子おおあまのみこさまや」

「見送りか。仰々しいのお」

「なに、難波の偵察のついでではないのか? ほら、先の宮の有間皇子ありまのみこさまが······」

「シッ、聞かれるぞ」

 見物人がこそこそと顔を突きあわせる。しかし波の音も気にせぬ素振りの大海人は、真っ直ぐに博徳たちの方へ歩いてくる。そして、石布の前で礼をすると、「太子から見送りを仰せつかりましたもので」と視線を上げた。なるほど、葛城かつらぎと見間違うほどにそっくりだと思っていたが、近くで見るとこれまた別人である。葛城が空に輝く太陽なれば、この男は日を照り返す大海原かもしれない。

「直々のお見送り、身に余る光栄でございます」

 石布が丁寧に挨拶を返す。それから二、三言よくある言葉を交わしていた大海人であったが、荷物を詰め込む水夫の雑踏に紛れるように「一つ」と声を低くした。

内臣うちつおみから伝言があるのですが」

 あの鎌足かまたり直々の言葉か。正直驚いた。鎌足を通した葛城の言葉でもなく、葛城を通した鎌足の言葉でもない。鎌足から大海人を通したという事実が些か珍しく思えた。

「先の白雉はくちの船にて、内臣の御嫡男が唐へ渡ったことはご存知でしょうか」

「ああ、定恵じょうえ殿」

 答えたのは副使の吉祥だった。大海人はご名答と言いたげに微笑む。

「今も唐にて勉学に励んでいるはずなのです。もし、向こうで新羅や百済の学友などを作って居られたならば、そこから各国の話を聞きだして貰えないかとのこと」

「定恵殿やそのご学友を通して、ということですか?」

「ええ。国というのは、常に情報を統制するものです。外交ならば尚更」

 大海人は強い瞳で念押しした。その「国」という言葉には倭の朝廷も含まれていたが、この時の遣唐使一行は気づく由もなかった。

「学生たちはまだ若いでしょうから。役人に話を聞くより、ずっと有り体に話してくれるかと」

「なるほど。そういうことでございますか」

 石布はそう返したが、博徳はどうも納得がいかなかった。学生云々に対してではない。たったこれだけのために大海人が派遣されてきたことに対して、だ。

 案の定、大海人は声を潜めて「それと」などと言葉を付け足した。

「定恵殿の帰国を今しばらく待たせるように、と」

 博徳らは目を見張った。唐に残された留学生は、次の遣唐使船で帰国することが通例となっている。そのため、前回の船で渡唐した定恵らは博徳たちの船で帰国するものだと思っていた。何も言えずにいると、大海人は「いえ、帰りたいという留学生は連れてきてもらって構わないのですが」などと顔を離す。

「定恵殿だけはどちらにせよ帰国させぬように、とのことです」

 言葉を失った。一行は引きつった笑みで承諾することしか出来なかった。一体どういうことなのだ。実の息子であろう。

 大海人は当たり障りのない挨拶を述べてこの場を立ち去ろうとする。聞きたいことは沢山あったが、今ここで話しかけても答えてもらえるだろうか。いくら遣唐使とは言え、皇子にズケズケと質問するなど烏滸がましい。しかし、今聞かなければ後々火種になるかもしれない。しばらく迷った末、博徳は去りゆく大海人に思い切って問いかけた。

「一つだけ確認させてください。それは確かに、内臣のご意向なのですね?」

 大海人は何も答えなかった。何も答えはしなかったが、彼は一つ笑みで応えた。それが是を表していることは、葛城に対峙した博徳には手に取るようにわかった。やはり似ているところがある。あの皇太子に。

 

 荷物が乗り切ったところで、人員が船へと上がり始める。見送りの者たちに頭を下げ、博徳ら使節も波打ち際へ向かった。石布と共に第一船へ乗り込もうとした時、掠れた声の女が一人の留学僧るがくそうへ駆け寄った。彼女は目元の良く似た少年の頬を撫でると、何度も何度も手を握り込む。

「達者でやるんやで。辛いことがあったら帰ってきてええでな。あんたが帰ってくるまでしっかり生きとるでな」

 皺の刻まれた手の先には黒く変色した爪が見える。漆部うるしべの者だろうか。歳の差を考えると、家のために末息子を出家させたのかもしれない。少年は、まだ桃の爪をした小さな手で母の指を握り込むと、「はい!」と真っ直ぐに笑った。微かに喉が震えていたのは、潮風に当てられたからだと思っておいた。

「大使さま、よろしくお願いしますえ」

 留学僧の母が石布へ声をかけると、役人が「気軽に寄るな」と入り込んでくる。しかし、石布はそれを制止して母子二人へ目線を合わせた。

「安全な船旅にしなくてはね。きっとまた会えますよ。彼も立派に育って帰ってくることでしょう」

 母は何度も頭を下げながら役人に引き剥がされていった。船に乗り込んでからも、その留学僧は懸命に手を振り続けている。

 博徳は船のへりに立つと、静かに大海人へ目をやった。彼は観衆の前でこちらを見上げ、耳飾りを日に煌めかせている。澄み渡る瞳に揺らめくのは雲の影か。時折映り込む青空の色までが鮮明に見えて不思議な心地がする。鋭い目元は葛城とよく似ているが、大海人はまた違う場所を見つめているように思えた。難波。留学僧。鎌足からの伝言······。何か捉えどころのない胸騒ぎがして、大海人から目が離せなくなる。

「重しをあげー! 縄を引けー!」

 ガクンと足元が揺らいだので慌ててへりに捕まる。水夫たちが一斉に声を上げ、櫂の雫を巻き上げた。

「そーれい! そーれい!」

 鳴り響く太鼓と呼応する男たちの声が博徳の思考を断ち切る。生駒いこまの山々に見守られながら、船は海へと漕ぎいでた。出航と着岸こそが一番座礁事故の多い難所。ぼやっと思考に耽っている場合では無い。博徳も氏族柄理解している上に、大人しくへりから離れようとする。

 しかし押し詰め状態の留学生たちにあっけなく移動を阻まれた。皆泣くものかと唇を噛んでいるが、濡れた目尻は隠せていなかった。浜辺から聞こえる数々の呼び声に己の名を探している。ちぎれそうなほどに腕を振る漆部の少年を横目に、博徳はそっと片手を胸に添えた。上着の上から握りしめたのは、妻・三奈子みなこが結んでくれた上衣の紐である。見えもしない飛鳥の我が妻子へ、心を込めて無事の再会を祈り続けた。二隻の船が浜辺から見えなくなったのは、実に半日も経とうとした頃の話であった。




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