第2話 エリート獄卒、転生を間違えられる


 明るい瞼の裏。


 鼻をくすぐる草木の匂い。


 前髪を通り抜ける風。


 ───そして、


「ぎゃあああああぁぁぁぁぁ」

「だれかぁぁぁぁああああ」

「たっ、たすけっ……助けてくれぇぇぇえええ」


 聞きなれた、“ヒト”の悲鳴。


「……は???」


 目を開けると緑の草原が広がっており、その先から3人ほどの人間がこの世の終わりのような顔をして、猛ダッシュでこちらに走ってくる。


「そ、そこの人!!」

「たすけてくれええぇぇっっ」

「ハングリーベアーだ!!!ハングリーベアーがあああぁぁぁ」


 ドドドドドドッッッ


 3人組の後ろからは大きな、黒い影がすごい勢いで追いかけてきている。


「はぁ……はんぐりぃべあぁ……?」


 わけも分からないが、このまま踏み潰されるわけにもいかない。


 私は傍らに落ちていたを手にとる。


「おら。」


 そのまま一気に地面を踏み、跳躍。


 3人の人間を飛び越え、鬼の前に立ちはだかる。


「熊、ですかね……。」


 鬼かと思った大きな影は、茶色の毛皮に身を包んだ熊だったようだ。


「それにしてはなんというか……おぞましい。」


 目は赤く爛々らんらんと光っており、心臓の辺りに赤黒い光を感じる。


 何よりも、その額には鬼のような太く長い角が生えていた。


「そこの青年!!!」

「逃げるんだ!!!逃げないと死ぬぞ!!!」

「いっ、いやだあぁぁ。たすけてええぇぇ。」


 助けるのか、逃げるのか、どっちなんだ。


「とにかく、この熊が敵なんですね。」


 槍を構えると、熊が萎縮いしゅくさせるように咆哮ほうこうした。


「ギャャオオオオオ!!!」


「うるさいですね。牛頭馬頭のほうがよっぽど行儀が良い。」


 ためしに首をめがけて、軽くやいばを振り下ろす。


 ブォン……という音と共に空を切る槍。


「ふむ。でかい図体のわりに動きが素早い。侮りましたね。」


「グオオオォォォォアアアア!!!」


「では、多少力を入れます。」


 右足に力を入れ、身体をひねりながら熊の後ろへと回り込み、槍を大きく突き出す。


「グギャャアアアァァァ!!!」


 槍は熊の肋骨を粉砕し、そのまま身体を貫いた。


「ふん。」


 そのまま横薙ぎにして肉を切り裂くと、


 ドォォオオオン……


 と音を立てながら熊はその場に崩れ落ち、すこしビクビクと震えたあとに動かなくなった。


 熊が倒れたことで見通しがよくなったそこには、先程逃げていた3人の人間が腰をぬかして座りこんでいた。


 しばらく呆然とした様子だったが、3人の中でいちばん大きい男がハッとしたように自我を取り戻し、こちらに歩いてくる。


「君、助かったよ。本当にありがとう。」


 男の握手に応じると、後ろから残りのふたりもパタパタと寄ってくる。


「す、すごいな兄ちゃん!!そんなに細身なのにひとりでハングリーベアーを倒しちまうなんて!」

「いやぁ、本当にありがとうございます!本当に!この命を失わずに……すみましたっ……うえぇ……」


「はぁ。それで、その。はんぐりぃべあぁというのは?」


 先程から人間の言う“はんぐりぃべあぁ”とは何なのだろうか。


「君、ハングリーベアーを知らないのか?」

「その魔物だよ、今兄ちゃんが倒したヤツ。」


「あぁ。この熊ですか。そういう名前なのですね。」


「あのぉ……お兄さんはどこから来たんですか……?

 見たところここの地方の見た目じゃない……ですよね?」


 いちばん気弱そうな青年がおずおずと聞いてくる。


「あぁ。私はじご……」


 ……?

 たしかに今、私は“地獄から来ました”と、そう言おうとした。


 転生、したのではなかったのか?

 記憶を一新し、あたらしい世界でイチから平穏な生活を、と。


 だがたしかに、鬼の記憶も、人間の叫び声の記憶も、ある。


 何より、愛用した地獄槍そうがこの手に、ある。


 なるほど……。


 なるほどなるほど。


「あんの……クソ閻魔ぁぁぁあああ!!!」


「ぴぎゃぁああ!!」

「ど、ど、どうした兄ちゃん!!」


 突然青筋あおすじを立てて叫び出した私に慌てる人間たち。


「こほん、すみません。取り乱しました。」


「あー、君はそのエンマァって奴にだまされたりしてここに連れてこられたのか?」


「騙す……えぇ、そうですね。そんなところです。」


「あー、そりゃ大変だったなあ。

 遅くなっちまったけど、俺はエドワードだ。このパーティーのリーダーをやっている。」


 男は慈愛の目で私を見ながら手を差し出してくる。


「俺ぁガイだ。よろしくな!」

「いっ、イワンです!」


「君は……?」


 エドワード、ガイ、イワンですか。

 随分ずいぶん外国風な名前だ、と思いながらふと考え当たる。


「私の名前ですか……。」


 自分の名前などとうに忘れてしまった。


「……阿傍羅刹あぼうらせつ、と呼ばれていました。」


「アボ……ラ・セツ……?」


 仕方なく長年の役職名を名乗ると、3人は顔を曇らせて復唱する。


 あまり馴染なじみのない発音でしたか。


阿傍夜叉あぼうやしゃ、とも。」


 別名を教えると、一転。納得の言ったように顔を明るくさせる人間たち。


「ヤシャが名前だな!ヤシャ、改めてありがとう。感謝するよ。」


 なるほど、これからはヤシャ、と名乗るのがスムーズな様子ですね。


「ヤシャ、本当に助かったぜ。お礼といっちゃ何だが、分からないことがあれば教えてやるぜ!

 このあたりのことは詳しくないみたいだしな……。なぁ、いいだろ?2人とも。」


 聞かれた2人はコクコクと笑顔で頷く。


 これは思わぬ拾い物だ。この世界のことを教えてもらえるなら、願ったり叶ったりという話である。


「それは助かります。ぜひ、お願いします。」


「よっしゃ、そうと決まればまずは街に帰って祝杯だな!ヤシャと俺たちの出会いに、だ!」


「たしかに、お腹すいていますね。気づきませんでした。」


 異世界の様子にすっかり忘れていた腹の虫が動き出す音がした。


「では、街までの案内をお願いします。」


 そう言ってスタスタと街のありそうな方向へ歩き出そうとすると、3人に呼び止められる。


「おいおい、ヤシャ!まずはここから教えてやらなきゃ行けないみたいだな。」

「ヤシャさん、帰る前にまずは、コレです!」


 そう言って3人ははんぐりぃべあぁを指し示した。


「……?熊の死体ですが……」


 3人は顔を見合わせると「コイツは教えがいしかない男だなぁ!」と私を見て笑った。


 ……人の顔を見て笑うとは失礼な。

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