第二話
翌朝、目が覚めると、昨日と同じ甘い香りが部屋に漂っていた。胸の奥で何かがざわつく。黒井璃々。彼女の微笑み、囁くような声、細い指の動きが、頭から離れない。
昨日の授業はただの神話の話だったはずなのに、なぜか肌にまとわりつくような感覚が残っている。ベッドから起き上がり、机に目をやると、彼女が置いていった本がまだそこにあった。古びた表紙に、かすかに彼女の香りが染みついている気がする。
ドアが軽くノックされ、僕の心臓が跳ねた。
「トオル様、おはようございます。」
彼女の声。柔らかく、でもどこか誘うように。ドアが開き、黒井璃々が姿を現す。今日も薄い赤紫のブラウスに黒いレースのスカート。コルセットベルトが彼女のウエストをきゅっと締め上げ、動くたびにスカートの裾が揺れて白い肌がちらりと覗く。思わず視線が引き寄せられるのを、慌てて抑えた。
「ふふ、ぼんやりしてますね。さ、始めましょう。」
彼女は昨日と同じ椅子に座り、僕を机の前に促す。今日は少し違う。彼女が僕のすぐ隣に座り、肩が触れそうな距離で本を開く。甘酸っぱい香りが強くなり、頭がぼうっとする。
「昨日はイザナギとイザナミが世界を創ったお話をしましたね。今日は、もう少し踏み込んでみましょう。」
彼女の指がページをめくり、ゆっくりと文字をなぞる。白い肌に黒いレースの袖口が揺れ、まるで誘うような仕草だ。僕はノートに目を落とそうとするけど、彼女の動きが気になって仕方ない。
「二人の神様は、天の浮き橋に立って、海をかき混ぜたんです。天沼矛(あめのぬぼこ)という槍で、ね。そうして、最初の島、淤能碁呂島(おのごろじま)が生まれた。そして、そこからたくさんの島や神々を産み出したの。」
彼女の声は静かで、まるで物語の情景を目の前に描き出すようだ。島が生まれ、神々が次々に現れる様子を話す彼女の目は、どこか遠くを見ているようで、でも時折、僕を捉える。その瞬間、胸が締め付けられる。
「彼らは調和の中で、世界を創った。でも、調和は永遠には続かないんですよ、トオル様。」
彼女の声が少し低くなる。ページをめくる手が止まり、彼女の指が僕のノートにそっと触れる。冷たい感触なのに、なぜか熱い。思わず手を引こうとしたけど、彼女の微笑みに動きが止まる。
「イザナミは、火の神、迦具土神(かぐづち)を産んだとき…火傷を負って、死んでしまったんです。」
「死んだ…?」
言葉が勝手に口をついて出た。彼女の目が、僕をじっと見つめる。まるで、僕の心の奥を覗き込むように。
「ええ。神様なのに、死んだの。初めての『死』だったんですよ。イザナギは、愛する妻を失って、泣き叫んだ。トオル様、想像できますか? 愛する人が、突然いなくなるなんて。」
彼女の指が、ノートから僕の手の甲に滑る。ほんの一瞬、触れただけなのに、電気が走ったみたいに心臓が跳ねる。彼女はくすっと笑い、指を離した。
「イザナギの悲しみは、死の重さを教えてくれるんです。生まれることには、終わりがある。それが、死と再生の始まりなの。」
彼女の言葉が、頭に染み込んでくる。イザナミの死、初めての終わり。神話の話なのに、なぜかリアルに感じる。彼女の語り口が、物語を生きているみたいにさせるんだ。黒井さんの声、視線、香り――全部が、僕を神話の世界に引きずり込む。
「ね、トオル様。」
彼女が身を寄せる。髪が僕の肩に触れ、甘い香りが鼻をくすぐる。彼女の吐息が、耳元で小さく響く。
「死は怖いですか? それとも…愛する人を失うことの方が、怖い?」
答えられない。彼女の目は、僕の迷いを楽しむように細められる。頬に、ほのかな赤みが差している。彼女の指が、またノートに触れる。今度は、僕の手に重ねるように。柔らかくて、冷たくて、でも熱い感触。心臓がうるさいくらいに鳴る。
「ふふ、考えなくていいですよ。今日はここまで。よくできました。」
彼女の声が、囁くように耳に滑り込む。彼女は立ち上がり、スカートの裾を整える。レースのニーソックスに包まれた脚が、ちらりと視界に入る。顔が熱くなるのを抑えきれず、僕はノートに目を落とした。
「次はもっと、面白いお話になりますよ。楽しみにしてくださいね、トオル様。」
彼女は微笑み、静かに部屋を出て行く。ドアが閉まる音が響く。部屋に残る香り。本のページに残る彼女の指の感触。心臓がまだ鳴りやまない。なんだ、この感覚。授業を受けただけなのに、まるで彼女に絡め取られているみたいだ。黒井さん…彼女の言葉が、頭の中で反響する。
「死と再生の始まり…」
ノートに書かれた「イザナミ」の文字が、なぜか彼女の微笑みと重なって見えた。
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