第三話
朝、目を開けると、いつもの部屋が少し歪んで見えた。
黒井璃々の香りが、まだ空気に残っている。昨日の授業――イザナミの死、イザナギの悲しみ、彼女の囁くような声と指の感触が、頭の中でぐるぐる回る。心臓が落ち着かない。彼女の微笑みが、まるで僕の心に根を張ったみたいだ。机の上の本を見ると、ページの端が少しめくれている。彼女が触れた場所だ。触れようとして、なぜか手を引っ込めた。
ノックの音。胸が跳ねる。
「トオル様、おはようございます。」
ドアが開き、黒井璃々が現れる。今日の彼女は、いつもより少しだけ近い気がする。薄い赤紫のブラウスが朝の光に透け、黒いレースの襟元が肌を際立たせる。スカートが揺れるたび、レースのニーソックスと白い肌の隙間が視線を奪う。彼女の香りが、部屋を一瞬で満たす。甘酸っぱくて、頭がぼうっとする。
「ふふ、今日は寝不足ですか?呆けた顔も可愛いですね。」
彼女の声は柔らかく、でもどこか意地悪に響く。くすっと笑いながら、彼女は僕の隣に座る。肩が触れそうな距離。髪がさらりと揺れ、首筋の白さが目に入る。思わず息を吞んだ。
「さ、始めましょう。今日は、イザナギの旅のお話です。」
彼女の手が本を開く。白い指がページをなぞり、まるで物語を撫でるように動く。視線をノートに固定しようとするけど、彼女の動きに引っ張られる。
「イザナミが死に、イザナギは耐えられなかった。愛する妻を取り戻すため、彼は黄泉の国――死者の世界へ旅立ったんです。」
彼女の声が低くなる。まるで、黄泉の闇をその場に呼び込むように。彼女の目が、遠くを見ているようで、でも時折、僕を捉える。その瞬間、心臓が締め付けられる。
「黄泉でイザナミと再会したイザナギ。でも、彼女は変わっていた。黄泉の食物を口にして、死者の一部になっていたんです。彼女は言いました。『私の姿を見てはいけない』と。」
彼女の指が、ノートにそっと触れる。僕の手の近く。冷たい感触が、肌に響く。彼女の吐息が、ほんの少し湿っている気がした。
「でも、トオル様。イザナギは我慢できなかった。愛していたから。知りたかったから。彼は、禁忌を破って、彼女の姿を見てしまったんです。」
彼女の声が、囁くように落ちる。身を寄せ、髪が僕の肩に触れる。甘い香りが鼻をくすぐり、頭がクラクラする。彼女の目が、僕をじっと見つめる。
「そこで彼が見たのは…見るもおぞましく腐敗したイザナミの姿だった。愛した人の、変わり果てた姿。トオル様、あなたならどうしますか? 見ずにはいられますか?」
「え…」
言葉が詰まる。彼女の問いが、胸の奥に突き刺さる。彼女の指が、僕の手の甲に滑る。柔らかくて、熱い感触。心臓がうるさい。彼女はくすっと笑い、指を離す。でも、その感触は肌に残る。
「イザナギは、再生を信じたんです。信じて危険を意に介せず黄泉の国に降り、イザナミに会いに行った。でも、死は元に戻せない。それが、旅の答えだった。」
彼女の言葉が、頭に染み込んでくる。イザナギの絶望、禁忌を破った瞬間の恐怖。神話なのに、なぜか生々しい。彼女の語りが、物語を目の前に浮かび上がらせる。彼女の声、視線、香り――全部が、僕を黄泉の闇に引きずり込む。
「ね、トオル様。」
彼女がさらに身を寄せる。髪が頬に触れ、吐息が耳元で響く。湿った、熱い吐息。
「もし、大切な人が変わってしまったら…あなたは、受け入れますか? それとも、逃げますか?」
答えられない。彼女の目は、僕の迷いを味わうように細められる。唇が、ほんの少し近づく。心臓が止まりそうになる。彼女の指が、僕の腕に触れる。ゆっくり、まるで味わうように。
「ふふ、考えなくていいですよ。今日はここまで。よくできました…いい子。」
彼女の声が、耳の奥に滑り込む。立ち上がり、スカートを整える。レースのニーソックスと白い肌のコントラストが、視界を掠める。顔が熱い。彼女は微笑み、机に手を置いて少し身を屈める。ブラウスが光を反射し、胸元のレースが一瞬だけ目に入る。
「次はもっと、深いお話になりますよ。楽しみにしてくださいね、トオル様。」
彼女は静かに部屋を出て行く。ドアが閉まる音。残る香り。ノートに書かれた「黄泉」の文字が、彼女の吐息と重なる。心臓が鳴りやまない。なんだ、この感覚。授業のはずなのに、まるで彼女に飲み込まれていくみたいだ。黒井さん…彼女の目が、頭から離れない。
「見ずにはいられますか?」
その言葉が、夜まで胸の奥で響き続けた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます