黒井璃々の奇妙な授業~僕は彼女に取り込まれていく

そうかい

日本神話(イザナギ・イザナミ)編

第一話

目が覚めると、僕は自分の部屋のベッドにいた。


いつもと同じ天井、いつもと同じ朝の静けさ。でも、どこか空気が違う。鼻をくすぐる甘い香り。カーテンの隙間から差し込む光が、部屋の隅で何かを照らしている。そこに、知らない女性がいた。


彼女は椅子に座り、優雅にティーカップを傾けていた。黒い髪が腰まで伸び、朝の光に艶めく。薄い赤紫のブラウスが、彼女の曲線をそっと浮かび上がらせている。視線を上げると、透き通るような白い肌。微笑む唇。ぞっとするほど整った顔が、僕を見つめていた。


「お目覚めですね、トオル様。」


彼女の声は柔らかく、囁くように耳に滑り込む。僕は慌てて身体を起こした。頭がぼんやりして、状況が掴めない。


「え、誰…?」


彼女はくすっと笑い、カップをソーサーに置いた。立ち上がると、スカートの裾が揺れ、黒いレースのニーソックスに包まれた脚が一瞬だけ視界を掠める。心臓が跳ねた。


「初めまして。私は黒井璃々。今日から貴方の家庭教師となりました。」


家庭教師? そんな話、聞いたことない。父さんも母さんも何も言ってなかったはずだ。でも、彼女の微笑みには抗えない何かがあった。まるで、僕の疑問をそっと撫でて消してしまうような。


「さ、準備してください。授業を始めますよ。」


いつの間にか、僕は机の前に座らされていた。目の前には、彼女が広げたノートと、どこか古めかしい本。彼女は僕の隣に座り、ふわりと甘酸っぱい香りが漂う。近い。あまりにも近い。彼女の髪が肩に触れそうで、僕は思わず背筋を伸ばした。


「今日は日本神話のお話をしましょう。」


彼女の指が本のページをめくる。白く細い指が、まるで踊るように動く。視線を奪われそうになるのを、必死で堪えた。


「イザナギとイザナミ。聞いたことありますよね?」


「え、はい……名前だけ。」


「ふふ、そうですか。」彼女の声が少し低くなる。


「この二人は、夫婦の神様。世界を創った、特別な存在なんですよ。」


彼女の言葉は、ゆっくりと部屋を満たしていく。まるで霧のように、僕の周りを包み込む。イザナギとイザナミがどんな神なのか、どんな物語なのか、彼女は詳しくは語らなかった。ただ、ふんわりと輪郭を描くように話す。


「この物語は、愛と別れ、そして…死と再生のお話。」彼女の目が、僕を捉える。深い、吸い込まれそうな瞳。


「トオル様、死んだ人を蘇らせたいと思ったことはありますか?」


突然の質問に、言葉が詰まる。彼女は微笑んだまま、答えを待つように首を傾げる。黒い髪がさらりと揺れ、首筋の白さが目に入る。心臓がまた跳ねた。


「イザナギはね、試みたんです。愛する人を、取り戻そうとした。」


彼女の声が、ほんの少し震えた気がした。感情が滲むような、でもすぐに消えるような。僕は彼女の言葉に引き込まれながら、どこか落ち着かない気持ちを抱えていた。


彼女の視線が、僕の顔をなぞるように動く。


「今日はここまで。」


彼女は立ち上がり、机に手を置いて少し身を屈めた。ブラウスが光を反射し、胸元のレースが一瞬だけ視界を掠める。僕は慌てて目を逸らした。顔が熱い。


「次はもっと、深くお話ししますね。楽しみにしていてください、トオル様。」


彼女の指が、そっと僕のノートに触れる。その感触が、なぜか肌に残るような気がした。彼女は微笑み、静かに部屋を出て行った。ドアが閉まる音が響くまで、僕は動けなかった。


部屋に残る甘い香り。机に置かれた本。彼女の声が、まだ耳の奥で響いている。



心臓が、静かに、でも確実に鳴り続けていた。

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