第4週【鏡】


その夜、優馬はなかなか帰ってこなかった。


LINEも既読にはなるが、返信はない。

真白は何度もスマホの画面を開いては閉じる。

先日のことが尾を引いていた。足に残った噛み跡は、やや赤黒くなり、まだジンジンと痛む。


バスルームには近づけなかった。


あの時、自分を引きずった“何か”が、今もそこに潜んでいるようで。


やがて時計の針が22時を回った頃、玄関の鍵が静かに開く音がした。


「優馬……?」


リビングのドアから顔をのぞかせると、


そこにはずぶ濡れの優馬が立っていた。


スーツは泥にまみれ、袖は破れ、左の頬には擦り傷。

だが、彼の表情はどこかぼんやりとしていた。


「どうしたの!?その格好」


真白の声に、優馬はゆっくりと顔を上げた。

目の焦点が、どこか宙を彷徨っているようで、普段の優しげな彼とは違って見えた。


「……ちょっとな。変な奴らに絡まれただけ。大したことないよ」


そう言って、靴を脱ぎ、濡れたままの足音を立てながら洗面所へ向かった。


真白は気づいた。


その足音が、普段と違うリズムを刻んでいることに。




翌朝。


優馬は何事もなかったかのように朝食を取り、出勤していった。


だが、真白の頭からは、昨夜の“足音”と“焦点の合わない目”が離れなかった。


ふと、テレビをつける。


ニュースの途中、短い報道が流れた。


《昨夜未明、都内の冷凍倉庫から身元不明の男性3人の遺体が発見されました。遺体には目立った外傷がなく、事件との関連を現在調査中です――》


アナウンサーの無機質な声が、部屋の空気をまた湿らせた。


冷凍倉庫。外傷なし。身元不明。


それは、ただのニュースとして聞き流すには、あまりにも意味深だった。


――あの時間、優馬はどこにいた?


だが、彼を問い詰める気にはなれなかった。

それよりも、今朝彼が出かける前、何気なく鏡の前で髪を整えていたときのことが気にかかっていた。


洗面台の鏡。そこに映った“彼”が、ほんの数秒、口を動かしていた。


……だが、声は出ていなかった。

そしてその言葉を発したのは、優馬ではなく“鏡の中の彼”だった。


あの口の動き――まるで、誰かに話しかけているようだった。


「……だれと、話してたの?」


あのとき声に出して聞くことはできなかった。

だが、真白は確かに“あれ”を見た。優馬が口を動かしながら、鏡に向かって微笑んでいたことを。


その夜、真白はひとりで寝室にいた。


優馬は遅くなるとのことだったが、既読はついていない。

不安を紛らわせようと、何気なくリビングの監視カメラの映像を見返していたときだった。


深夜――鍵が勝手に開いたあの夜。


映像の中で、誰もいない玄関の前に一瞬だけ“人影のようなもの”が映っていた。

それはふらりと現れては、次のフレームで消えていた。


画面を止め、何度も巻き戻して確認する。


――白い服を着た、女のような影。


顔は判然としない。ただ、目だけが異様に黒く、真白を見返していた。


そして次の瞬間。


今、真白がいる寝室のドアが、ギイィィ……と、ひとりでに開いた。


寝室の空気がまた、冷たく濡れ始めていた。





目が覚めたとき、部屋の空気がどこか湿っていた。


夏の気配を帯びた空気が肌にまとわりつくようで、真白は寝汗を拭いながらベッドから身を起こした。


昨晩のあれは夢だったのだろうか。


ふと隣には、優馬がいないことに気づいた。

代わりに枕元には、見覚えのない白い紙袋が置かれていた。


袋の中には、紙製の小さな包みと、丁寧に折られた手紙。


それは先日寺で会った住職からのものだった。


「今のあなた達にとって、きっと助けになるでしょう。

これを使うとき、部屋を清めてからにしてください。

夜、眠る前。香を焚き、水を額に一滴――

ただし、香りに違和感を覚えたら、すぐに使用をやめるように」


手紙の文面にはそうあった。


包みの中には、小さな線香の束と、掌サイズの瓶に入った無色透明な液体。

“お香”と“聖水”とでも呼べばいいのだろうか――だが、どこにも効能や材料の記載はない。


(本当に、これが効いているのだろうか)


半信半疑ながら、真白は寝室の隅に香を焚き、その匂いに包まれながらしばらく目を閉じた。


やや刺激のある、清涼感を含んだ匂い。

だが、鼻の奥にかすかに残るのは、どこか消毒液のようなケミカルな気配――。





その日の午後、真白は久しぶりに母の部屋を訪れた。


実家とは呼びたくない場所。だが、何か答えがある気がしてならなかった。


母はまだ戻っていなかった。

だが、机の上には数枚の写真と、破りかけのノートが広がっていた。


その中に、1枚だけ妙な違和感を覚える家族写真があった。


両親と、幼い頃の真白。そして――もうひとり、見知らぬ少女。


(この子……誰?)


彼女と並んで笑う小さな自分。まるで姉妹のように自然に写っている。

だが、今まで見たことがなかった。


母の話では「姉がいるが、事情があって他の家に預けられている」と聞かされていた。


しかし、真白の記憶にその姉の面影はなく、写真一枚しか証拠がない。


ノートの切れ端には、母の筆跡でこう書かれていた。


「あの子のことは、思い出してはいけない」



文字は途中から震えており、最後のページは破られていた。


ゾクリと寒気が走った。


真白は写真をひとまず持ち帰ることにした。


だが帰宅途中、電車の車窓に映った自分の顔が、何かおかしかった。


頬の下、うっすらともう一つ“口”のような影が見えた気がしたのだ。


瞬きをして見直せば、それは消えていた。


“幻覚”か、“疲れ”か――。


そう思い込もうとしたその夜。


寝入り際、枕元から微かに女の声が聞こえた。


「……ねえ、思い出したの?」


誰かが、布団の下からこちらを覗き込んでいるような感覚。


真白は声を殺して、ただ毛布を握り締めた。


(姉……?)


声は、あの写真の中の少女のように、どこか自分と似ていた。




その朝、優馬は妙に目覚めが良かった。


普段なら二度寝したくなるような時間に、ふと目が覚めてしまったのだ。

隣には真白がまだ眠っていた。布団をきつく握りしめ、苦しそうな寝息を立てている。


昨夜、彼女はひどく怯えていた。焦燥した表情に、くっきりと目の隈が付いている。


「声がする」「写真の中の子が喋った」――そんな言葉を繰り返していた。


正直、意味はよくわからなかった。けれど、彼女の目には嘘がなかった。


(俺が支えなきゃな)


仕事の合間、優馬はあの寺を思い出した。

除霊や相談を受けている住職――不思議な香や聖水を自分たちに渡していた人物。


あの住職の顔が、どうにも頭に残っていた。


スマホで名前を検索すると、いくつかの情報が出てくる。


その中に一つ、奇妙な雑誌記事が目に止まった。


「祈祷とカウンセリングの融合。静かな寺の中の精神医療」


見覚えのある顔。あの住職が、白衣姿で患者と談笑している写真。


病院名の記載こそないが、明らかに精神科医としての紹介記事だった。


心の中に、ぬるりと冷たい感情が広がる。


(あれは――薬だった? 聖水も? 俺たちは……)



帰宅すると、真白がリビングで香の束を手にしていた。

だが彼女の手は震えていて、その表情には怒りと恐怖が混じっていた。


「……これ、薬だったんだよ。あの住職、医者だった。騙されてたの」


真白も調べていたのだ。あまりにも状況が悪くなる一方で、同じ事を彼女も考えていた様だ。


優馬は黙って聞いていた。言い返す言葉がなかった。


真白は香と聖水をゴミ袋に詰め、怒りに任せて玄関の外に放り投げた。


それから二人は、言葉を殆ど交わすことが無かった。





夜、優馬は目が覚めた。



どこか遠くで、低いうなり声が聞こえる。

犬のような、けれどもっと獣じみた、喉の奥で響くような音。


起き上がると、窓の外に人影が見えた。


首のない誰かが、マンションの駐車場を歩いていた――気がした。



翌日。ニュースが流れていた。


「港区の冷凍倉庫で男性数人の遺体が見つかりました件ですが、いずれも身元不明……捜査は難航」


テレビに映った防犯カメラの映像。雨の中、倉庫の前を横切る男の後ろ姿。

傘も差さず、全身びしょ濡れだった。


(どこかで見たような……)


思い出したくない記憶が、じわじわと浮かび上がってくる。


数日前の夜、帰宅が遅くなった日――優馬は、体のあちこちに擦り傷を負っていた。

「強盗の集団に絡まれた」と説明したが、どこか辻褄が合わなかった。


殴られた跡も、打撲のような腫れもない。

それなのにシャツは血で染まり、手は冷たく湿っていた。


(俺は……何をしてた?)


記憶が曖昧になる瞬間が、最近増えてきた。


夜中、鏡に映る自分と視線が合わなくなることもある。


“あれ”は俺だったのか?

もしそうなら――


「真白を、守らなきゃいけないのは俺なのに」


そう呟いたとき、部屋の隅で何かがカリカリと音を立てた。


振り返っても、そこには何もない。ただ壁紙が少し剥がれているだけ。


けれど、優馬の耳には確かに聞こえた。

誰かが、そこにいた声が。








「もうすぐだよ、ユウマ」


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