第3週【姉】


午前中の空は、まるで濁ったガラスのようだった。陽射しが差していても、どこか鈍く冷たかった。



「また来てたの。ドアの前に、今日も」


真白は、淡々とそう言った。優馬はカップを置きながら彼女の方を向いた。


「……今日も?」


「うん。優馬が出た直後。ノックの音で気づいたけど、インターホンのカメラには誰も映ってなかった」


最初は宅配かとも思った。けれどチャイムも押さず、ノックだけを毎日繰り返す誰か。


そして、いつ開けても“いない”。真白は何度か待ち伏せもしてみたという。けれど、一瞬で姿を消してしまう。まるで、霧が晴れるように。


「なんか……人の気配はあるんだよね。でも扉を開けた瞬間にすーっと居なくなっちゃう」


優馬は返す言葉を見つけられなかった。ただ、彼女の表情が冗談ではないことだけはよくわかった。


そしてその夜、ポストを覗いた優馬がまたあの白い封筒を見つける。


「……来てる。三通目だな」


部屋の中で、真白が封を切る。いつものように、無言で取り出した中身。それを見て、ふたりとも言葉を失った。


乾いた“歯”が、二つ。ほんのりと血がにじんでいる。根本に肉がわずかに残っていた。焼けたような、鉄のような、得体の知れない臭いがこびりついていた。


優馬は視線を逸らした。真白は、どこか冷静にそれを見つめている。


「誰が……何のために……」


「わかんない。でも、これ……続いてる。止まってないってことだよね」


翌日。真白は意を決して、再びあの寺を訪れた。優馬はついて行こうとしたが、真白は首を振った。


「たぶん、ひとりで行った方がいい気がするの。そう言ってた気がするの。あの人が」


「あの人?」


「住職さん……じゃない、誰か。夢かも」


その言葉に不穏さを感じつつも、優馬は止めなかった。真白は小さなバッグに前回もらった香を詰めて、扉を閉じた。


寺に着くと、住職は以前と同じ静けさで迎えてくれた。年齢も服装も、まるで時間の外にいるように変わっていなかった。


応接間に通されると、真白はこれまでの出来事を淡々と語った。


住職は話を黙って聞いていたが、やがて手元にある木箱を開けた。


「再びお香をお渡しします。今回は量を少し増やしておきました」


そして、小さな瓶も渡された。


「これは……?」


「さらに強力な聖水です。夜、眠る前に。あなたと優馬さん、2人で使ってください」


真白は受け取りながら、ふと手元に目をやった。瓶の底に、見慣れない記号が刻まれていた。何語かもわからない文字――だが、目を背けたくなる不安感だけははっきりと感じ取れた。


住職はなおも話を続けた。


「これは憑き物や霊障のように見えるかもしれませんが……その実態は、まだ掴めていません。ですが、今のあなたが“それ”に好かれているのは確かです」


「“それ”って?」


「……名前を言葉にすることが、時に力を与えるのです。だから、言わないようにしています」


しばしの沈黙。真白はそれ以上、尋ねるのをやめた。


「一つだけ。もし本当に耐えられなくなったら、あなたと彼で離れることも考えてください」


「離れる……?」


「ええ。こういった存在は“つがい”に憑く傾向があります。片方から距離を取ることで、力が弱まることもある。そういう例もあるのです」


真白は、何も答えなかった。


帰宅後、真白は言われたとおりに香を焚き、聖水を部屋の隅々に振りかけた。部屋の空気が少しだけ軽くなった気がした。


けれどその夜、優馬が見た夢は、何かを“噛む”音だけが延々と響く暗闇だった。


そして翌朝。


リビングの棚に飾っていた、二人の記念写真が床に落ちていた。ガラスが割れ、写真の中央――真白の顔だけが、黒く焦げたように変色していた。


まだ、それが誰かの仕業だと決めつけるには早すぎる。けれど、偶然とも思えない。




時は戻り、真白だけ再び寺に向かい。残された優馬は家で家事に明け暮れていた。


異変が起きていようとも、生活はしなければならない。


洗い物を終え、部屋の片付けをし、コーヒーを飲みにキッチンに向かうところだった。


「あれ……こんなのあったかな?」


ふと、一冊のノートが置いてある事に気がついた。古びたノートで所々にシミとセロハンテープで破れた箇所が補強してある。


優馬自身のものではない。それはつまり真白の物である。


悪いとは思ってはいたが開かずにはいられなかった。この日常に潜む異常は、もう何か“知る”事でなければ好転しないと優馬は考えていた。


手に汗を滲ませながら、ペラペラとその中身に目を通していった。


「……これは、日記」


それは、異変とは関係が無い、《母の日記》だった。子供のその成長が事細かに書いてある。この文面、おそらくいまだに行方不明になっている真白の母親の物だ。なんだかんだで真白は母を大切に思っているのだと優馬は感じた。


この書いてある時代的に、20年ほど前のことであろうか。真白の小学生時代のことが記してある。


……小学生時代?


優馬は一つ引っ掛かりを覚えた。小学生といえば、あの写真。あの家にあった写真はまさか真白のお母さんが持ち込んだ物?それであれば辻褄はあった。


だが“なぜ?”というのはずっと心に残った。


ページの最後の方まで飲み進めた時、もう一つ気になる点があった。


それは彼女が【天樹会】という宗教へのめり込んでいる様が文面から見てとれた。支援もだいぶしていた様でこれもまた、真白の母へ対する苛立ちに対する辻褄が合う気がした。


優馬はスマホを取り出し、【天樹会】を調べた。最初に来るのは当然、天樹会のホームページではあったが、そのあとに続くのはこの宗教の様々な噂をまとめた物が多かった。


《カルト宗教、天樹会の実態!子供を攫っている噂!?》


《信者の子供を献上させると噂のカルト、天樹会とは》


《実は悪魔宗教?キリスト母体と言われてる天樹会の真実とは》


かなり胡散臭い宗教なのは確かだったが、まさかあの優しそうな真白のお母さんが嵌ってしまったいたとは驚きであった。


優馬は記事をブックマークし、日記をそのままにしておいた。



そして翌週、梅雨入りした空は、どこまでも濁っていた。


洗濯物は乾かず、床はじっとりと湿り気を帯びる。


だが、それ以上に不快なのは――この家に流れる、空気そのものだった。


「最近……変じゃない?」


真白が呟くと、優馬はスマホから顔を上げた。


「何が?」


「家の匂い……とか。空気。なんかこう、澱んでるっていうか」


言われてみれば、たしかに。

湿気のせいだろうと片づけるには、どこか“生温かく重い”空気。


風通しを良くしても、すぐに戻ってしまう。


「お香、焚いてもいい?」


「いいよ。あの、住職さんの?」


真白はうなずきながら小さな紙包みを取り出した。


和紙に包まれた香は、前にもらったものとは少し色が違っていた。より濃く、濡れたような質感。だが、手に持つとどこかひどく冷たい。


火をつけると、甘さと鉄のような苦味が混じった煙がふわりと立ち上った。


「……この匂い、前より強くない?」


「うん。でも、安心する」


不思議なことに、その煙に包まれている間だけは、不安も消えるのだった。


その夜。


真白はなかなか寝つけなかった。優馬は先に寝息を立てていた。

だが、彼女の耳にはその呼吸の隙間に「何かの音」が混じっている気がした。


……コツ、コツ、コツ。


部屋の外。廊下の奥。誰かが歩く音。

次第に近づいてくる足音が、寝室の前で止まる。


ごくりと唾を飲み込んだその瞬間。

バタンッ!


寝室のドアが勢いよく開いた。

誰もいない。


その“はず”だった。

なのに、真白の身体は突如、何かに引っ張られた。


「……なに……っ!?」


声にならない悲鳴とともに、彼女はベッドから滑り落ち、足を何かに掴まれた。


透明な手。見えない力。冷たく、濡れたような感触。


そのまま床を引きずられ、廊下を這うようにして風呂場まで連れて行かれる。


「優馬っ!!」


ようやく絞り出した声が、寝室にいる彼に届いたのかどうか。


ズリズリと足を引っ張られる感覚。暴れても決して開放される事は無かった。


風呂場の扉が開き、湿ったタイルが足を冷たく迎え入れる。

次の瞬間、バシャッと音を立てて冷水が彼女に降りかかった。


――噛まれた。


足に、確かに歯が食い込んだ感覚があった。

見えない何かが、ふくらはぎを、足首を、容赦なく噛んでくる。


叫び声とともに優馬が風呂場に駆け込んできた。すぐさま風呂から引き上げられ、真白にタオルをかけた。


彼の腕の中で、ガタガタと震える真白は何度も「見えなかった」と繰り返す。



翌朝。

真白の足には、噛み跡がいくつも残っていた。

どれも歯型のように、正確に並んでいた。


病院に行こうかという優馬の言葉を、真白は拒否した。


「大丈夫。見られたくない」


そう答える声は震えていたが、それ以上彼は何も言えなかった。


代わりに、真白の足に聖水をかけ、ガーゼを巻いた。

住職から渡された瓶は、すでに半分ほど空になっていた。


昼。

優馬が出勤して数時間後、真白は再び自室で一人になった。


ふとした拍子に、デスクの上に置いてあった家族のアルバムを手に取る。


めくると、そこには小さなメモが挟まっていた。手書きの、母の字だった。


《あの子はもう少しで帰ってくるはずです。真白の妹じゃありません。姉です。あなたに似て、目が綺麗な子です》


それを読んだ瞬間、背筋が凍った。


姉なんて、いた覚えがない――けれど、母から何度も「養子に出した」と言われていた存在。


あのカルト宗教に通い始めてから精神的におかしくなっていた母は、やがて自分に「姉がいる」と話し始め、なぜかその姉が「養子に出した」という設定に置き換わっていた。


記憶の中の“いないはずの姉”が、ぼんやりと影を伸ばし始めていた。


ページの下の写真に、知らない少女が映っていた。

真白に似たような、けれど目だけが異様に暗い笑みを浮かべた女の子。


その目が、写真の中から真白をじっと見ている。

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