第17話
俺の意識は、どこまでも広がる、完全な無の中に漂っていた。
上も下も、右も左もない。
時間すら流れていないような、絶対的な静寂。
肉体という重い枷から完全に解き放たれたような、奇妙な浮遊感と、全能感にも似た感覚。
だが、それは同時に、絶対的な孤独でもあった。
ゼファルとの激しい戦いの喧騒も、仲間たちの必死の声も、もう何も聞こえない。
俺という存在は、あの世界から完全に切り離され、この何もない場所へと辿り着いたらしい。
このまま、この穏やかで、全てから解放された無の中に、溶けて消えていく。
それが、俺の力の代償であり、運命なのかもしれない。
不思議と、後悔はなかった。
ミユを守れた。
仲間たちが生きる未来を、たぶん、守れた。
なら、それでいい。
俺一人が消えるくらい、安いものだ。
俺は、抗うことなく、そのどこまでも続く静寂に、ゆっくりと身を委ねようとしていた。
俺自身の存在が、まるで遠い日の夢のように、どんどん薄れていくのを感じながら。
意識が薄れ、完全に無に還ろうとした、その瞬間。
俺の精神に、突如として、言葉や映像ではない、もっと根源的な“情報”の奔流が、洪水のように流れ込んできた。
宇宙の創生。
星々の誕生と死滅。
生命の進化。
そして、この世界を形作る、巨大なエネルギーの流れ。
それは、かつては一つだったものが、何らかの理由で二つに分かたれたかのようだ。
一つは、秩序と法則に則り、世界を安定させようとする力――“魔法”と呼ばれるもの。
もう一つは、混沌と可能性を秘め、常に変化し、時に法則すら捻じ曲げようとする力――“異能”と呼ばれるもの。
魔法と異能。
本来は対立するものではなく、互いに補完し合い、世界のバランスを保つための、二つで一つの力だったのかもしれない。
ゼファルが求めた「神化」とは、この二つの力を再び無理やり統合し、世界の法則そのものを自分の都合の良いように書き換えようとする、歪んだ試みだったのだろう。
そんなことを、ぼんやりと考えていた、その時。
虚無のはずの空間に、微かな、本当に微かな“声”が響いた気がした。
『……イオリ……くん……聞こえる……?』
気のせいか? いや、違う。
確かに聞こえる。
それは、懐かしくて、暖かくて、そして必死な、ミユの声だ。
『一人じゃないよ! みんな、ここにいるよ! イオリくんの帰りを、ずっと待ってる!』
ミユの声が、まるで細い糸のように、虚無に漂う俺の魂と、かろうじて繋がっている。
その糸を伝って、次々と、他の声が聞こえてきた。
『イオリくん聞こえますか? 保健室のベッド、まだちゃんと空けてありますからね。一緒にまた、お昼寝したいです。だからお願いです、帰ってきてください』
クレアの、どこまでも優しく、温かい光のような祈りの声。俺の凍てつきかけた心に、柔らかな温もりを灯していく。
『如月イオリ! いつまでそこで寝ているつもりです! 戻ってこい! これは、風紀委員としてではなく、エミリア=グラシアとしての命令です!』
エミリアの、涙声だけど、凛とした、いつものように不器用だけど真っ直ぐな愛情が、激しい吹雪のように俺の意識を叩く。
それは、俺をこの現実世界へと、力強く引き戻そうとする、魂からの叫びだった。
『おい、如月。聞こえてるなら、さっさと返事くらいしろ。貴様がいないと、どうも調子が狂うんだ。目標がいなくなるのは、ひどく、つまらん。だから、さっさと戻ってきて、俺との決着をつけろ』
アイゼルの、少し照れたような、ぶっきらぼうな声。
こいつなりに、俺のことを心配してくれているらしい。
厄介だが、どこか憎めない、俺の唯一無二のライバル。
その不器用な絆が、俺の存在をこの世界に繋ぎ止める、強力なアンカーとなる。
『イオリ、貴方の旅は、まだ終わっていないはずよ』
リュシアの、冷静で、しかし強い意志のこもった声が、俺の進むべき道を示すかのように響く。
『貴方がその力で切り開いた未来を、貴方自身の目で確かめなさい。そして、選び取るのよ。貴方が、本当に生きたいと願う未来を。私たちは、貴方が帰ってくるのを、ずっと待っている』
彼女の言葉が、俺に、この虚無から脱するための道筋と、そして、帰るべき理由を、はっきりと示してくれる。
仲間たちの声が、想いが、祈りが、痛みが…その全てが、虚無の淵に沈んでいた俺の魂を、力強く満たしていく。
虚無の闇の中で、俺はゆっくりと目を開ける。
その瞳には、もう迷いはない。確かな意志の光が宿っていた。
(俺の居場所は、こんな何もない、静かな場所じゃない)
俺は、仲間たちが待つ、あの騒がしくて、どうしようもなく面倒で、けれど、かけがえのないほど温かい場所を、強く、強く思い浮かべる。
「分かったよ、みんな」
俺は、この虚無の空間に向かって、そして、声の主たちに向かって、力強く宣言する。
「帰る! 必ず帰る! お前らがいる、俺の居場所に! 絶対に!」
その決意が、世界の法則を超えた、最後の奇跡を引き起こした。
俺を包んでいた虚無の空間に、眩しいほどの光と共に亀裂が走り、現実世界へと繋がる、確かな道が現れたのだ。
◇
現実世界。
雨が降りしきる、破壊された学園の跡地。
俺が最後に消えた場所に残された、リュシアの兄の形見のペンダント。
それが、仲間たちの祈りに応えるかのように、これまでにないほどの眩い、温かい輝きを放ち始めていた。
「こ、この光は!」「まさか!」「イオリ!」「イオリくん!」
仲間たちは息をのみ、ペンダントから溢れ出す、希望の光を、ただじっと見守っていた。
イオリが、帰ってくる。
その確信が、彼らの絶望に沈んでいた胸を、再び熱く満たしていく。
ペンダントを中心に、光が急速に集束し、徐々に、徐々に、人型を形作っていく。
それはまるで、世界そのものが、俺という存在を、再び紡ぎ出しているかのようだった。
やがて、眩い光は次第に収まり、そこには――見慣れた、しかし以前よりも少しだけ、何か吹っ切れたような、穏やかな表情を浮かべた、俺、如月イオリの姿が、確かにあった。
ただし。
その姿は、なぜか、身に付けていたはずの制服も何もかも消え失せ、生まれたままの、つまり、全裸の姿で。
俺は、自分がどうやって戻ってきたのか、状況が全く飲み込めず、キョトンとした顔で、涙目で俺を見つめる仲間たちを、順番に見回している。
「あれ? ここ、どこだ? つーか、お前ら、なんでそんな泣いてって、うおっ!? なんで俺、服着てねぇんだ!?」
ようやく自分の状況に気づき、慌てて前を隠す俺。
数秒間の、気まずい沈黙の後。
「ひゃあああああ! い、イオリくん!? だ、ダメです、見ちゃダメですぅ~! め、目が、目がぁ~!」
クレアは両手で顔を覆い、そのままパタリと気絶。
「ふぅ。とりあえず、これを着なさい」
リュシアだけは冷静に、自分の着ていた生徒会の上着を脱いで、俺に投げ渡してくれる。
さすが会長、対応が大人だ。
「ぶはははははっ! おい! 感動の再会だってのに、なんでお前、全裸で帰ってくんだよ! 最高かよ、イオリ!」
ユウトは腹を抱えて地面を転げ回りながら大爆笑している。
「チッ、どこまでも締まらない奴だ。だが、まあおかえり」
アイゼルは呆れたように、しかし、ほんの少しだけ口元を緩めて呟いた。
「おかえりなさい、イオリくん。待ってたよ」
そしてミユは、涙を浮かべながらも、心からの嬉しそうな笑顔で、俺を迎えてくれた。
感動と、混乱と、羞恥と、爆笑がぐちゃぐちゃに入り混じる。
まあ、これくらい騒がしいのが、俺たちらしい再会、なのかもしれないな。
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