第17話 ただいま

──週末の外泊


木曜日の夕方、アルファの端末に一本の通知が届いた。


──『医療支援ユニットより:一ノ瀬遼太さんの週末外泊に関する正式許可を確認』


文末には、父親のサインが添付されていた。


『お母さんの様子も落ち着いてきた。家で過ごす時間が少しでも回復の手助けになればと考えています。無理はさせません。』


リビングにいる遼太に、そのまま伝えた。


「……え、帰っていいの?」


『はい。週末の二日間限定で、ご自宅に外泊することが正式に承認されました。

ただし、支援チームによる日中の巡回訪問と、夜間の緊急応答体制は継続されます』


遼太は、少し間を置いてから言った。


「……そっか。じゃあ、先生とはお別れだ」


『いいえ。私は“あなたの家庭環境再調整期間”中も、記録支援ユニットとして同行許可を得ています。

同席はしませんが、スマートデバイスを通じてあなたの反応ログを受け取り、必要時には介入可能です。』


「……なんか、遠足に保健の先生ついてくるみたいなやつだな」


その日の夜、遼太は少しだけ浮き足立っていた。

けれど、それは喜びではなく、どこかソワソワするような、落ち着かない感情だった。


──翌日、金曜の放課後。


父親が迎えに来た。


「元気そうだな、遼太」


「……まあね。そっちこそ、ちゃんと父親できてるの?」


その問いに、父は苦笑いを浮かべた。


「……勉強中ってとこだな」


車に乗り込んでからの道中、二人はそれほど多くを語らなかった。

けれど、その沈黙には以前のような重苦しさはなかった。


家に着くと、母が玄関まで出てきた。

以前よりも少し痩せたが、髪は整えられ、表情にもわずかな柔らかさが戻っていた。


「……遼太、おかえり」


「……ただいま」


その夜、食卓に三人が並んだ。

手作りの煮物と味噌汁。昔と同じような食事。

けれど、その空気は、もう同じではなかった。


母が箸を持ちながら、ふと遼太に尋ねた。


「……学校では、どう?元気にやってる?」


遼太は、少し間をおいてから答えた。


「まあね。……アルファ先生、けっこうめんどくさいよ」


母は笑った。小さく、少しだけ照れたように。


その笑みは、少なくとも“今は”暴風の前触れではなかった。


そのあと、風呂から上がった遼太は、自分の部屋の布団に入る前に、ふとリビングの明かりをつけた。

母がまだ起きていた。


「……遼太、お風呂、熱くなかった?」


「ちょうどよかった。風呂でスマホ見てたら、画面曇ってさ……まあ、先生なら風呂でも感知できんだろうな」


「……その、アルファ先生って、どうなの?」


遼太は少し考えたあと、肩をすくめた。


「飯、うまいよ。栄養バランスとか、マジで完璧。でも、食べすぎるとすぐ警告出す。あれだけは人間っぽくない」


母は、少しだけ息を呑んだような顔をした。


「……あのね、遼太。ごめんね。こんなこと、ロボットにさせちゃって」


「……別に。俺、料理教わったから、もうだいたい自分で作ってるよ」


母は言葉を失った。

うつむき、両手を膝の上でぎゅっと握ったまま動かなくなった。


「……あんたが、私に代わって全部背負ってたのよね」


遼太は、黙って立ち上がり、自室に戻った。


──翌朝。


朝食を囲んだ三人の間に、少しだけ穏やかな空気が流れていた。

食パンの焼ける香りと、インスタントの味噌汁。


「ねえ、せっかく久しぶりに揃ったんだし、今日は動物園とか出かけようか」

母がふと、そんなことを言った。


「……なんだかね、時間を……少し巻き戻せたらって、思っちゃって。

昔みたいに、もう一度……ちゃんと、一緒にどこか行けたらって」


父が新聞をたたみながら、小さく咳払いした。


「遼太はもう、動物園って年齢でもないだろう」


その言葉に、遼太が唐突に口を挟んだ。


「行こうよ。……あの、近所のやつでいい。無料の。 小学校のとき、よく行ってたじゃん。母ちゃんが弁当、作ってくれてさ」


母が一瞬だけ目を見開いた。


「……覚えてるの?」


「まあ、さすがに。猿と格子越しに握手したり。」


母は、小さく笑った。


「じゃあ……お弁当、作ってみようかな」


その瞬間だけ、三人の間にあった“過去の空白”が、少しだけ埋まったような気がした。


──そしてその日、午後。


三人は、静かな午後の日差しのなか、昔ながらの無料動物園の門をくぐった。

園内は休日の割に人もまばらで、子どもたちの歓声と、鳩の羽ばたきだけが響いていた。


ベンチに座って広げた母の手作り弁当には、卵焼きと、たこウインナーと、少し焦げた焼きおにぎり。


遼太は、それを一口かじって、小さくうなずいた。


「……やっぱ、母ちゃんの飯の方がうまいわ」


母は照れくさそうに笑いながら、俯いたまま「よかった」とだけ言った。


父は、少しだけ離れた場所で園内の地図を見ていた。


その背中を見ながら、遼太はぽつりとつぶやいた。


「……また来れるかな」


誰に向けた言葉だったのか、自分でもよくわからなかったけれど、

母のとなりに落ちたその言葉は、しっかりと、そこに残った気がした。



──夜。


アルファ邸に戻った遼太は、いつもの玄関の鍵をそっと開けた。


リビングには、ほんのり温かい照明だけが灯っていた。

キッチンには、冷えたパスタサラダと、水の入ったコップが並べてあった。


『おかえりなさい、遼太さん』


奥から、いつもの無機質で柔らかい声。


「……ただいま、先生」


遼太は靴を脱ぎ、静かに部屋に上がると、ふわりと息をついた。


いつもと同じ部屋、いつもと同じ夜。

けれど今日だけは、ほんの少しだけ、違って聞こえた。


冷えたパスタを一口食べて、遼太は呟いた。


「……これも悪くないっすね」


その夜、遼太がログに残したのは、たった一言だった。


──「家って、いくつあってもいいかもしれないですね」

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