Episode.9...Air junction.

 Keep out as my key to heart...

 達郎の胸を占めるのは、空虚。バーベキューの夕暮れ、立ち上がる煙に揺れる彼の視線は、由真の背中に滲む惜別の影を捉えていた。夕闇に染まるその瞬間、言葉にならない感情が彼の内に燃え上がる。何故、何故あのとき——別れを告げる彼女に何かひとつでも手向ける術を持たなかったのだろう。由真には写真を送った。空と海の間の写真を、あの頃の水平線に向かって進む船のように由真には人生を切り開くクルーになってほしいから。

 彼はかもめを撮る。海辺に舞い降りる白い羽根たちを、ただ無心にシャッターを切る。写真に映る姿は、自由を象徴するはずのかもめでありながら、その無造作な飛翔は彼の心に「届かなかったあの時の幼き頃の夢」を暗示する。彼が問い続けるその何かは、由真の目に映ったであろう淡い痛みの形なのかもしれない。

 帰路のピリオド。達郎は問い続ける。「どうして、どうしてあの瞬間、ただひとつの言葉さえも差し出せなかったのか」と。その問いは彼の中で風となり、いつか晴れる日が訪れることを願いながらも、答えのない刹那の海を揺らし続ける。彼の心理は、夜に浮かぶ白い波のように、無音の叫びとなってその内側に広がり続けるのだ。


「ハロー、達郎君」マキナが言った。別れの瞬間、達郎の心には一筋の風が吹き抜けた。それは、長く続いたギスギスした関係の重圧から解放される安堵の風だった。竹を割るようにキッパリとした別れの言葉が交わされ、彼の胸に残ったのは、静かな空白と、ほのかな自由の感覚。

 その空白は、決して虚無ではない。むしろ、それは新たな始まりを告げる静寂であり、彼の心に広がる青空のようなものだった。学校中に知れ渡ることへの不安は、波のように彼の心を揺らしたが、その波の奥底には、穏やかな海が広がっていた。彼はその海に身を委ね、過去の重荷を手放すことができた。

 達郎は、別れの後に訪れるこの安堵を、まるで長い嵐の後に訪れる晴れ間のように感じた。彼の心に広がるその晴れ間は、未来への希望を示唆し、彼を新たな旅へと誘うものだった。彼はその旅の中で、過去の痛みを糧にしながら、より豊かな自分を見つけることを願っていた。

「何?」

「ちょっと話があるの、今良いかな?」由真が言った。

 何だろう、と思っていると、今夜由真の家に来ないか、という誘いだった。女の子の部屋に入ったことは一度としてない自分がそんなことになるとは思いもよらない。私は当然、何か作って持っていった方が良いか、と聞くと、「ありがとう。達郎くんは心配しなくていいよ。うちの母さんの料理が口に合うのかどうか分かんないけど、食べてみて。あなた料理上手いから、ついうっかり手伝わされるかもしれないけど、その時はこれ、あげるから許して」そう言うと、手渡されたのは、箱だった。

「アクセサリーが入ってる」

「プレゼント?誕生日じゃないぞ。まだ」

「良いから受け取って」

 そう言って渡された。何故なのか、この時まで知る由もなかったが、気が付かない自分も駄目な男なのかもしれない。

「分かった。じゃあ、またな由真」

「ええ、宜しく言っておいて、あなたの優しい母親にも」

「おう」

 何故、こんなにも優しくするのか、理解できなかったが、放課後、その事が気になって由真の家まで学校の帰りに行った。達郎は、由真の家の玄関先で立ち尽くしていた。シャワーを浴びているから後にして、と言われたときの彼の心境は、まるでドアの向こうにある真実を覗き見できないもどかしさそのものだった。仕方ない、と自分に言い聞かせながらも、アクセサリーのお礼を伝えるために訪れた自分の行動が、どこか空回りしているように感じていた。

 そして、問題の夜。由真が現れた瞬間、達郎は思わず目を見張った。おしゃれな格好に身を包んだ彼女の姿は、普段の彼女とは違う一面を見せていた。「これからどこかに行くのだろうか」と思わず問いかける達郎。しかし、由真の返答は「いやどこにも、暑いから、今日は」と、どこかそっけないものだった。その直後、彼の足を踏むという謎の行動。達郎はその理由を考える間もなく、ただ痛みに顔をしかめるばかりだった。

「さあ、上がって」と促され、彼女の家に入ると、シャンプーとリンスの香りが漂い、若々しい女の香りが混じった華やかな空気が彼を包み込んだ。しかし、由真がその夜のためにおしゃれをした理由に気づくことなく、達郎はただその場の空気に飲み込まれていた。彼の鈍感さと由真の微妙な心の動き。そんな由真の後をついていくと、豪華な食事が待っていた。母がFried Chickenに、Fried Onion Ring。Cakeまで作っていた。

「どうしたんだ、急に」

「最後の夜くらい楽しみたいじゃない」

 最後の夜の意味が分からなかったが、意味深である。聞き直した。

「あれ、言ってなかったっけ、私、転校するの、田舎の大学に」

 私は、手に持っていたFried Chickenを落としそうになった。慌ててつまみ上げると、平然を装った。「そうか、んでどこに?この近くだったら知ってるけど?」

「違うわ。北九州市近辺に。あたしの単身で進学が長引いて仕方ないけど。だからアンタともお別れ。バイビー。大学も多分全然違うだろうし、もう一生会うことないわアンタと」

「なんじゃいそら。ふざけんなよ。あの時の会話、何だったんだよ」

「え……私の独断と偏見で見たわ、あんたのこと。かっこ悪いかもしれないけど、賢くって素敵だわ。これからも勉強しなさい」

「余計なお世話だ。人ん家の料理さんざん食いやがったくせに、食いもん代払え」

「ウチの家の教訓知ってる?」

「知らんでも分かる」

「せーので、言ってみて」

『やったら、やり返せ』

「ビンゴー!だからあんた食いまくっていいわよ。食い放題の店だと思っていいから」

「とんだ失礼な女の言い草だな」

「煩いわね。大食いやるの、やらないの?」

「やらさせて頂きます」

「その姿勢が、新しい彼女にあるかどうか不安だわ。あんただから許せたことよ、感謝しなさい。ついでに友達の候補として取っておくから連絡先教えておくように」

「うわ、マジで、どんだけ」

「よく、どんだけみたいな語彙だけは習得してるのね」

「うるせえ、この」

「じゃあね。バイビー。ケーキも食っていいから」

 とんだ茶番だったが、そこまで悔しがるほどの女と言うか男でもないためどうだって良い。正直好かれそうなのに、一々余計な属性を付けるからややこしくなる。それも、特別な女性以外に好かれることを意識して上のことらしい。

 まあ、私達の話なんてこんなものしかない。ひと夏の淡い出来事だったのだろう。

 私は、また新たな青春に目覚めるのかもしれない。石井くんも文系だし、矢沢は言わずとしてた文系。

 さあ、お礼も言ったし、飯も食い終わった。出ていこうとすると。

「手紙、受け取っていいから。私の机の上にある手紙」

 何だろう、と思って目的の場所にある手紙の中身を見ると、そこには英文が書いてあった。


 英文の意味が分かったものの、どういう意味か分からず、「なんじゃいそら」と聞き返すと。

「雲の中の空気のような存在。夏に落ちた髪のような存在。あなたって、とてもいて悪くない存在」

「そうか……」

 そう思って読むと悪くない。私も恋愛に自信が持てるようになるときも来るかもしれない。

「ありがとう由真」

「おやすみ」、その言葉は柔らかな夜の帷を引き寄せるような響きを持つ挨拶だった。深く静かな沈黙に溶け込むその二文字は、ただ眠りを促すもの以上の意味を秘めていた。それは静寂そのものが語りかける、一度限りの別れの詩だった。

 その夜、達郎は、星々の微かな輝きとともに「おやすみ」という言葉が放たれる。言葉は空気の中で消え去るようでありながら、心の奥深くに染み入る。二度と会えないかもしれない、永遠の別れが待つ静けさ。それは切なくも穏やかな時間の中に溶けていき、まるで風が頬をなでるような儚さを残している。

 静寂は語り始める。耳元に響くその声は、何も言葉にすることなく全てを伝える。過ぎ去る瞬間の儚さも、未来へ続く孤独な旅路も、「おやすみ」の中に宿る。眠りへと向かう時間の穏やかさは、まるでこの一言が全てを包み込み、別離を抱きしめるかのようだった。

 達郎と由真の間柄は、まるで風に揺れる浮石のようだった。互いに深く絡み合うことなく、それぞれの道を歩むための一瞬の交差点に過ぎなかった。達郎は、由真の傍にいることができないもどかしさを抱えながらも、その感情を胸に秘め、潔く諦める道を選んだ。

 由真は転校という新たな一歩を踏み出し、達郎もまた、その背中を見送ることで自分自身の強さを試されていた。恋愛という熱情ではなく、ただ「踏み越える力」を求めた二人の関係は、どこか乾いた風のように淡々としていながらも、心の奥底に静かな余韻を残していた。

 その余韻は、達郎にとっては問いかけの形を取り、由真にとっては新たな未来への一歩となった。二人の間に交わされた言葉や感情は少なかったが、その静けさの中に、互いの選択を尊重する潔さが確かに息づいていた。

 そう。達郎は後ろを振り向いて道を整えている。由真は昔の砂利道を振り返らず、船を造り、船出を祝っている。

 一体、彼らの軌跡にどこに違いがあるのだろう?ベクトルの風向きに違いがあるとすれば、時間を経験したかどうかだけ。

 時間の罪はいずれ消える。

 だから達郎は後ろ道の道路を整備していた。一生懸命に渡ってきた道を整えていた。達郎の時間はいつだって過去に墓標があった。

 由真の場合は違った。浮き《Buoy》は未来軸前方にグライド。

 そうだった。僕と彼女の違いは、過去を懐かしんで砂のお城を作るか、渡るために、橋を作るか、それだけの違いだった。

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