第4話 深層
数年ぶりに僕らは竹林にやってきた。
相変わらず竹が並び、ざわざわと竹の葉が時折風に揺られている。今は真夏の昼だが、日陰の多いこの場所は昔と変わらず涼しげで少し薄暗く、相変わらず蝉の声は少ない。
そんな影のさす場所に似つかわしくない白いワンピース姿の愛子ちゃんは、周囲を見渡しながらどんどん奥へと進んでいく。
「あ、池無くなったんだ」
ぽつりとそう言った彼女の視線の先を見ると、そこはかつてよくザリガニをとっていた池があった場所だった。
かつてはザリガニやオタマジャクシのいた池は干からびており、かつて池があった場所には乾いた土以外に何もなかった。
すっかり様変わりした思い出の場所を見ていると、僕の中に何かがこみあげてくる。
「よく、ここに来て遊んだよね」
「うん……そうだね」
そのこみあげてくる何かに満たされたいと思った僕はそう言って立ち止まった。しかし彼女と池があった場所を見ていたい気持ちになったが、彼女は足を止めるそぶりも見せず、竹林の奥へと足を進めていく。
僕は無駄話をしたかったわけではない。ただ愛子ちゃんに思い出してほしいと思ったのだ。
昔、僕らはここに並んで訪れ、共に遊んだ日々を今思い出してほしかった。だが当の彼女は昔を懐かしむ気はないらしい。
立ち止まった僕と進む愛子ちゃんの間に距離が生まれる。それはまるで、今の僕と愛子ちゃんとの心の距離を現してるように見えた。
その時、僕は違和感を覚えた。
何故か愛子ちゃんは僕を警戒しているように思えたからだ。
幼馴染とはいえ久しぶりに会った男と人気のない場所で、二人きりでいる女性が警戒心を抱くのも分からないわけではない。だが、一体僕の何があそこまでの警戒心を持たせているというのだろう。
そんな心のもやもやを感じながら歩き続けると、愛子ちゃんは立ち止まり、竹林に来て初めて僕の方へと振り返った。
「あれが、ジョンのお墓?」
そう尋ねられ、僕らは例の開けたあの場所へとたどり着いたのだと気づいた。
そこに、あの悪臭は全くなかった。怪物とジョンの姿も当然なく、あるのは、盛られた土の上に乗せられた漬物石のような石だけが、縦に置かれている。
あれはきっと祖父が建てたジョンのお墓で、あの石は墓石代わりなのだろう。
「初めて見るけど、きっとそうだよ」
「……そう」
彼女は、ジョンのお墓がある開けた場所にすぐ立ち入ろうとせず、立ち止まったままジョンのお墓を見つめていた。
大切な愛犬を失った場所に何か思う事があるのか、それともあの怪物の姿を思い出し、怖くて近寄りたくないのかは、彼女の顔を見ても分からない。
僕はあの日のように彼女より先に開けた場所に入り、ジョンの墓石の前に立った。
ぽつんと置かれた石だけがあるなんの変鉄もない開けた場所に、あんな見たことのない恐ろしい存在がここにいたのかが嘘のようだ。
「私ね。あの怪物が何なのかずっと考えてた。でも、多分あの怪物がなんだったのか一生分かる日は来ない。そう思うの」
そう背後から声をかけられ振り向くと、彼女は既にこの開けた場所に足を踏み入れ、僕の後ろにいた。
「……そうだね」
全く同意見だった。
恐らく、あの怪物の正体や何故あんな無残な姿になっていたかの謎が解き明かされる事は永久に来ない。
そんな解けない謎を僕は既に受け入れていた。
よく分からない事なんて、この世にはたくさんあるというのを僕は知っている。
勉強だって毎日学校に行っていても分からない事ばかりだし、テレビを見ても、世の中の分からない事ばかりを映し出すばかりで、何も理解が出来ない。
だからあの日見た怪物の無残な骸は、人が理解できない世界の一部であり、僕らはそれを垣間見てしまっただけなのだと僕は片付けていた。
「……でもね、一つだけ分かりそうな事があるんだ」
「分かりそうな事?」
僕は愛子ちゃんの言葉が理解できず、彼女が何を考えているのか読み取ろうとするが、険しい表情のまま僕とジョンの墓を見つめている。
その表情は何かを見透かそうとしているように見えた。
「ジョンを殺した犯人よ」
「どういう事? ジョンを殺したのはあの怪物だろう?」
ジョンは怪物の足なのか何だか分からない体から突き出た杭のようなものに貫かれていた。なら、犯人はあの怪物のはずだ。
「そうかもしれない。でも、あの怪物は私たちが見た時にはあんな姿になっていたのよ? あれはどう見ても既に死んでいたわ。死んだものがジョンを殺すわけがないないじゃない。なら、ジョンを殺したのは……」
そこで、彼女は一度言葉を止めて、僕をジッと見つめた。その鋭いまなざしは睨んでいるようにさえ見える。
僕は彼女が何を言おうとしているのか何となく察した。しかし、それを信じたくなくて、彼女を見つめながら言葉の続きを待った。そして、愛子ちゃんは黙ったまま僕を見つめ続けた
見つめ合う僕らの間には張り詰めたものがあり、緊張で息が詰まりそうになりながらも僕はじっと彼女を待ち続けた。
そして意を決したように、一度強く唇を噛んだ愛子ちゃんは口を開いた。
「ジョンを殺したのは、あなたなんじゃないの?」
彼女からはっきりと告げられた言葉は、僕の胸に冷たく突き刺さる。そして、彼女は僕に何故警戒心を抱いていたのかを理解した。
彼女はずっと僕を疑っていたのだ。あの日、ジョンを殺したのは怪物ではなく、この僕だと。
嘘であってほしかった。
子供の頃に数え切れないくらいに遊んだ愛子ちゃんが僕を犯人だと疑っているなんて受け入れられるはずがなかったからだ。しかし、愛子ちゃんはさらに追求を続けていく。
「ジョンが死んだ日、あなたは私の手を引いてくれた。あの時、私の手を握るあなたの手にジョンの毛がたくさんついてたのよ」
「……僕の手に?」
思わず自分の手を見てしまった。
当然ながら何もないその手には、冷や汗が浮かんでいる。
僕は明らかに動揺していたが、愛子ちゃんの指摘は間違っている。何故なら僕はあの日竹林でジョンに触れてすらいないからだ。
「愛子ちゃんはジョンをよく撫でてたから、愛子ちゃんの手にジョンの毛がついてたんじゃないの?」
僕は咄嗟に思いついた可能性を口にした。しかし、それはまるで言い訳をしているようであり、愛子ちゃんの疑念を晴らせるわけがなかった。
「いえ、私は覚えてるわ。あなたの指の間にたくさんのジョンの毛が指の間にあった事を。あんなのジョンの身体を強く握らないとつくはずがないでしょう?」
「……」
今度は、何も言い返せなかった。
昔、怪物を見たと言っても信じてくれなかった祖父が僕の言葉を信じてくれなかった時よりも、ずっと悲しくて、涙がこぼれそうで何も言えず、顔を伏せる事しか出来なかった。
「ねえ、本当の事教えてよ。あなたなんじゃないの? ジョンをあんなふうにしたのは」
何も言わず俯く僕に愛子ちゃんが僕の肩を強く掴む。
強く握る愛子ちゃんの手は怖ろしかった。かつて手を握り合い僕の心を満たしてくれたあの手が今は僕を恐怖に陥らせている。
「し、してないよ……なんで、そんな事を」
「あなたはジョンを嫌ってた!」
「確かにジョンばかりにかまう愛子ちゃんを見ていて、嫌な気持ちにはなっていたけど、嫌っていたつもりはないよ!」
僕の肩を掴む彼女の手を振り払いながら放った言葉は、嘘偽りのない本心の言葉だった。
確かに僕はジョンに対して嫉妬のような感情を抱いていたかもしれないけど、本当に憎んだり嫌ってはいなかった。だが……本当の事をいえば気がかりな事はないわけではなかった。
あの怪物の骸を見たあの時、僕の記憶に空白があるからだ。
決して長くはない短い時間、それが数秒なのか数分なのかも分からない記憶の空白の間にジョンは死んでいた。だから、彼女の言い分を全て否定する事が僕にはできなかった。
つまり僕は自分が犯人ではないという証明を自分で出来ないのだ。
だから僕は信じてもらう事しかできない。だが、彼女は信じるどころかますます疑いを強めているようで、彼女に気圧され僕が後ずさると彼女は逃さないとばかりにさらに近寄ってくる。
「本当の事を言って!!」
怒りに囚われた彼女は僕を強く突き飛ばした。
バランスを崩した僕は踏みとどまろうとしたが、体勢を崩し倒れてしまう。
「……っ!」
頭に激痛が走った。背後にあったジョンの墓石に額を打ちつけたとすぐに気づいた。
打ち付け痛む額を手で押さえるとぬるりと濡れたその手を見れば、赤い血がついていて、すぐに視界の半分が赤く染まった。
そんな僕に大して愛子ちゃんは容赦なく倒れたままの僕の胸ぐらを掴み、乱暴にゆすりながら何かを叫んでいるが、頭を打ったせいか何を言ってるのか分からないし、どんな風に怒っているのかも視界が定まらないせいで分からない。
……どうして、こんな事になったのだろう。
僕はただ愛子ちゃんともう一度楽しい日々を送りたかっただけなのに、どうして愛子ちゃんはこんなひどい事をするんだろう。
何もかもが受け入れられず、何もかもがおかしくなりそうで目が回りそうだ。
ぎゃあぎゃあと喚く声、揺れる赤い視界、顔を伝う血。
そんなものを感じながら僕は怪物を見たあの日のようだと、ぼんやりと思った。
恐ろしい怪物の骸を前にして、何故か愛子ちゃんの裸を見た時の事を思い出して嫌な気持ちになって、色んな事がごちゃ混ぜになったあの時の感覚が再び訪れようとしている。
しかしあの未知の悪臭はない。だからこそ僕の霞みがかった意識は何とか保たれている。
愛子ちゃんに乱暴に扱われながら僕は力なく首を横に向けた時、鼻に何かが届いた。
それは土の臭い、そしてあの日嗅いだあの悪臭がわずかにあった。
だからそうなるのはもう必然だったのかもしれない。
僕の中に時間がすぎる感覚が再び襲い掛かった。
記憶の空白が生まれようとしている……。
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