第3話 再会

 あれから五年が経ち、僕は中学生になった。


 その間に祖父は僕が小学六年生になった頃に体調を崩して、そのまま亡くなってしまった。

 最後に会ったのは、入院した祖父を家族みんなでお見舞いに行った時だ。


 少し痩せてはいたが元気そうだった。祖父本人もすぐに退院すると言い張って、祖母はそんな祖父に呆れ、そんな祖父の様子に安心した僕らは他愛のない話をしばし楽しんだ。


 そんな会話の合間、ちょうど祖母と僕の両親が互いの近況を話し合っている時だった。


「あの事は、誰にも話していないな?」


 そう祖父は僕に囁いた。


 あの事とは、数年前に竹林で見た出来事とジョンと怪物の死体をその場に埋葬した事を秘密にした事だと僕はすぐに理解した。


 悪臭と地面に転がるジョン、そして怪物の骸。あの夏の日、竹林で見たものは今もはっきりと覚えている。


 あの出来事を誰かに話そうとは思った事は一度もなかった。それを話したとしても信じてもらえる訳もないからだ。


「うん」


 僕は祖父の目を見て、ただ一言で答えた。


「そうか。なら、ええ。そのまま誰にも言わず忘れろ、いいな?」


 僕は黙って頷いた。簡単に忘れられるとは思えなかったが、何となく祖父が僕の為に言っているように思えたからだ。


 そして、祖父との最後の会話となった。それから一週間後に祖父は亡くなってしまった。

 


 祖父が亡くなった後も、中学生になった後も両親は僕を祖母がいる田舎へと連れて行った。


 夫を失った祖母は昔よりも大人しくなり、愛子ちゃんのような遊び相手のいない田舎は、本当に退屈で息が詰まりそうだった。


 そんなある日、縁側で寝転がって漫画を読んでいると、嬉しそうな表情を浮かべて祖母が僕の下にやってきた。


「ねえ、小学生の頃によく遊んでた愛子ちゃん覚えてる?」


 もちろん愛子ちゃんの事は覚えていた。この田舎で唯一の遊び相手だった存在を忘れるはずがない。


「その愛子ちゃんが遊びに来たよ」


 ニコニコと笑いながらそう祖母が言った時、僕の胸は高鳴った。


 ……あの高鳴りは、どんな意味だったのだろう。愛子ちゃんが突然来た驚きなのか、それともまた会える喜びのどちらなのだろう。


 ドキドキしながら居間にいくと、そこには白いワンピースを着た女の子がちゃぶ台の前に座っていた。


 真っ白のワンピースと肩まで伸びた絹の様に綺麗な黒い髪、そして整った横顔は、まるで清らかさそのもののようだと思った。


 思わず僕は立ち尽くし、僕の到来に気づいた彼女は僕の方を向いた。


 その顔は確かにあの愛子ちゃんのもので、僕の胸には懐かしさが去来した。


 彼女も僕と同じ気持ちを抱いたのか。わずかな沈黙が僕らの間を包む。


「えっと、久しぶりだね」


 数秒の沈黙、それを破ったのは彼女だった。


 変わりのないその声に僕は喉が詰まって言葉が出てこず、情けない事に照れくさそうに小さく手を振って、僕は彼女の向かい側に座った。


「あれからどうしてた?」


「まあ、普通に過ごしてたよ。愛子……ちゃんは?」


 昔のように愛子ちゃんと気恥ずかしくて素直に言えなかった。あんなに親しくしていたのに、数年の別れていた時間が僕と彼女の間に壁のような何かを作り上げている。


「私は、色々あったかな」


 彼女も距離感を測りかねているのだろう。僕らの会話はどこか探り合うようでぎこちなかった。


「愛子ちゃんとまた会えて嬉しいわ。でも、どうしてこんな田舎にまた来たの?」


 三人分の麦茶とお菓子を持ってきた祖母が台所からやってきて、ちゃぶ台にそれらを置きながらそう尋ねた。


 どうやら祖母からすれば数年の歳月など、気にするほどのものではないらしい。


「中学生になったし、ちょっとくらい一人旅でもしようと思って挑戦してみたんです。ここなら日帰りでも帰れるし、土地勘もあるしちょうどいいなって」


「あら、活発でいいわね」


 祖母にきちんとした敬語を使いながら微笑む愛子ちゃんは昔よりも少し眩しく、昔よりも遠い存在になったかのように思えた。


「せっかく、来てくれたんだし夕飯でもどう?」


「いや、ちょっと顔を見に来ただけなので……」


「遠慮しなくていいわよ。じゃあ私買い出しに行ってくるから、愛子ちゃんの相手をしてね」


 祖母はほとんど強引に話を進めて、そのまま家に僕らを残して自転車に乗って買い出しに行ってしまった。


「君に会えて、よほど嬉しかったんだね」


「かもね。まあ、いいかな。夕飯食べてすぐに帰れば、ギリギリ帰れると思う」

 祖母が出かけた後、僕らはフッと静かに微笑みあった。


 その時、一度失ったものが戻ってきたような充実感を胸に抱いた。


「そういえばおじいちゃん亡くなったんだってね」


 きっと祖母から聞いたのだろう。


「うん……だから、ここに来ても寂しかったよ」


 君もここからいなくなってしまったしと思わず付け加えそうになったが、そんな恥ずかしい事を言えるはずもなく、麦茶を口に含んで誤魔化した。


「ねえ、そういえばさ……ジョンの事覚えてる」


 僕はその言葉を聞いた時、一瞬だけ僕の体が固まった。


 それは小学二年生の夏の事を思い出させたからだ。


 あの恐ろしい無残な姿となった怪物の骸と殺されたジョンの姿を。


「私、お父さんから聞いたの。ジョンは山の動物にやられて連れていかれてしまったんだって。ねえ、何故そんな話しになったの? 私たちは確か見たわよね? 殺されたジョンとあの……死んでいた怪物を」


 愛子ちゃんは僕をまっすぐに見てそう訊いた。


「あれは、見間違いだったんじゃないかな」


「……嘘よ」


 それは鋭く氷のような言葉だった。


 確かに僕が口にした言葉は誤魔化しだった。しかし僕の知る愛子ちゃんは、僕の言う事をそんな風に僕の言葉を切り裂くようにすぐさま否定したりはしない。

 

 その瞬間だけ、僕の前にいる愛子ちゃんが、まるで愛子ちゃんじゃないように見えた。


「あんなのを、何かと見間違うと思ってるの?」

 

 いくら気が動転していようとあんな怪物を他の生物と見間違うはずがない。しかし、見たことのない愛子ちゃんに驚いていた僕は、それ以上の事を考える余裕はなかった。


「あの出来事があった翌日、私はジョンが死んだショックで行く事はできなかったけど、あなたとあなたのおじいちゃんはあの竹林に行ったのよね? なのに、何故ジョンの話だけで、誰も怪物の話をしないの? なんで誰も怪物の話をしないの?」


「それは……」


 あの怪物の存在を祖父が、みんなに隠した事を僕は言うべきか迷った。


 怪物を見ていない人ならまだしも、愛子ちゃんは僕と共にあの怪物の姿を確かに目にしている。その為、他の人たちのように簡単には納得できないのは当然の話しだ。


 何より彼女は、あの怪物に愛犬のジョンを殺されている。そんな彼女にだけは、真相を教えてあげるべきではないかとも思った。


 僕はどうすべきかと考えながら愛子ちゃんを見た。


 険しい表情を浮かべながら愛子ちゃんの黒い綺麗な瞳が僕をじっと見つめている。その瞳を見て、ふとあの日ジョンが殺されて泣いていた彼女の涙が綺麗だと思った事をその時の僕は思い出した。


 ──ああ、なら仕方ない。


 そんな事を思ったのは、きっとあの涙に嘘をつきたくなかったからだろう。


「……実は、おじいちゃんと秘密にする事にしたんだよ。あの怪物の事を」


 結局僕はそう言って、祖父が怪物の存在を隠し、ジョンと怪物をあの竹林の奥に埋葬した事を愛子ちゃんに伝えた。


 亡くなった祖父には悪いと思ったけど、自分がかつて綺麗だと思ったものを裏切る事なんて、僕にはできなかった。


「……ふーん、なるほどね」


 黙って僕の話を聴き終えた愛子ちゃんは俯いてそう言った。


 口元を隠しながら考え込むその顔は怒っているようにも見えるし、悲しんでいるようにも見えた。


「怒ってる?」


「嘘を聞かされてたのは良い気分じゃないけど、おじいちゃんがそうした事も理解できない訳じゃない、かな」


 口振りは納得しているようだが、心情はまた別のようであった。やはり愛子ちゃんにとって、あのジョンは大切な存在だったんだなと僕は改めて思った。


 会話はそこで終わり、また沈黙が訪れた。


 愛子ちゃんはは考え込んだまま時折こちらをちらりと見て何も言わず、彼女に隠し事をしていた為に気まずさから僕は何を言えばいいのか分からなかった。


 まずは謝罪の言葉を口にすべきではないだろうかと思った時、愛子ちゃんは立ち上がった。

 

「ねえ、あそこに行ってみない?」


「それって……」


僕は彼女を見上げながら、あえて分かり切った事を尋ねた。


「そう、ジョンのお墓があって、あの怪物がいた所よ」


 あの日以来、僕はあそこに近寄ってはいない。行く理由もなかったし、あんな不可解な事があった場所に近づきたいとは思わなかった。しかしその提案に僕は魅力を感じていた。


 何故なら祖父が建てたというジョンの墓を一度くらいは見に行くべきではないかとも思っていたし、本当にあの日見た怪物は本当に怪物だったのかという疑問は僕も思っていなかったわけではなかったからだ。


 ……いや、本当は愛子ちゃんが一緒に行こうと誘ってくれたからだ。 

 

 またこの田舎で彼女と一緒にいられるなら、どんな恐ろしい事が待っていてたとしても構わないとさえ僕はその時思ったのだ。


 僕は静かに立ち上がり、彼女を見つめて言った。


「行こう。あの場所へ」

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