第2話 埋葬
僕らが祖父母の家に着いたのは、日が沈み始める夕方頃だ。
泣きじゃくる愛子ちゃんを見て、祖父母の二人は慌てて近寄ってきた。
「愛子ちゃんどうしたの? 一緒にいたワンちゃんは?」
祖母が愛子ちゃんの顔を覗き込みながら心配そうに尋ねる。
僕らは何があったのかをありのままに説明した。
ジョンが走り去り、後を追いかけると竹林に死んだ怪物がいて、ジョンが殺されたこと。
しかしそんな話を大人が信じてくれる訳がなく、僕らの説明を聞いた二人は互いに顔を見合わせ困惑している。
「何か隠し事でもしてるんじゃないだろうな?」
祖父はしゃがみ込んで、疑念の眼差しを向けながら低い声で僕に尋ねた。
信じてもらえない事に心が傷ついたが、嘘は言っていないので、僕は強く首を横に振るしかなかった。
祖父は腕を組み、しばらく考え込んだ後、僕の肩にポンと優しく手を置いた。
「……分かった。明日、そこにわしを連れていきなさい」
その声はいつも優しい祖父の声で、僕はホッと胸を撫でおろした。
また明日あの場所に行くのは嫌だったけど、自分の言ったことを信じてもらえないよりはずっとマシだったからだ。
「あんた、大丈夫なの? 山から下りてきたイノシシか何かを見間違えたんじゃないの?」
「あのへんは人里に近いからイノシシは出んよ。ま、愛子ちゃんの家にも説明をしないとあかんからな。一度行った方いいだろう」
心配する祖母に背を向けて祖父はそう言うと家の奥へと歩いて行った。
祖母はその背中を見ながら何か言いたそうにしていたが、泣いている愛子ちゃんを放っておけず彼女の手を優しく握り、なだめだした。
先ほどまで僕と握り合っていたあの手は、しわとシミだらけの手を固く握っている。
僕はその繋がる二人の手を見て、僕は無意識に自分の手を握りしめていた。
閉じた手の中は空っぽで、もう一度彼女と手を繋ぎたいと心から思った。
竹林で起きた奇怪な出来事も忘れてしまうくらいに。
「おじいちゃん、あっちの方だよ」
次の日、僕はあの怪物がいたあの竹林の奥へと祖父を案内していた。
本当は愛子ちゃんのお父さんも同行する予定だったが、愛子ちゃんが強く嫌がった為、やむなく後の事を僕らに任せて、娘の傍にいる事になった。
「本当に妙なバケモンを見たのか?」
竹林の奥へと進みながら、祖父はそう聞いてきた。
未だに僕の話をありのまま信じていないらしく、周囲を見渡すその表情には疑念が見え隠れしている。
「変な臭いがしたんだよ。嗅いだことのないすごい臭い」
「臭いか……」
何か思い当たる節があるのか、ふと足を止めた祖父のその目は、今ではないどこか遠くを見つめている。
「そういえばわしの叔父さんが、昔似たような事言っておったな」
白いひげを撫でながら、祖父はぼそりと呟いた。
「おじいちゃんの叔父さん? どんな人?」
祖父の叔父という僕にとって縁の遠い人物を何故思い出したのか気になり、僕は思わずその人の事を尋ねた。
「ああ、おじいちゃんがお前くらいの時に戦争から帰ってきてな。生きて帰って来たのは良いものの、ある日気が……いや、心の病を患ってしまってな」
祖父は言葉を濁したが、その叔父が急に変になってしまったことは察した。同時にその事を口にしない方がいいと子供ながらに漠然と感じた僕は、祖父の話しを黙って聞き続けた。
「戻ってきた当初はいつも通りの叔父さんだったんだがなあ。ある日、急に化け物を見たと言い出したんだ。最後は臭いが消えないとぶつぶつ呟くようになって、そのまま死んでしまったよ」
それはまるで怪談のようで少し身震いしたが、祖父の真剣な表情は僕をからかっている様子は微塵もない。
いつも祖父が語る思い出話は、自分には関係のない遠い物語に思えたが、今はその遠い物語と自分が見えない糸で繋がっているようで、何か得たいの知れないものがその糸を伝って僕に忍び寄って来るような気がして、不安僕の胸を締めつけた。
「ああ、そんな真面目に聞くような事じゃない。ただの昔話だよ」
僕の様子に気まずさを覚えたのか。祖父はそう言って朗らかに笑ったが、そのあからさまな作り笑いに僕は笑い返す事はできない。
祖父と僕の間に微妙な空気が流れた時、僕の鼻を何かが強く刺激した。
それはあの怪物の臭いだと僕はすぐに分かった。しかし、その臭いは昨日とは違いかなり弱く、耐えがたい程ではない。
それでも僕の脳裏には、鮮明に昨日見たものが蘇っていく。
残酷にして無残な姿を晒す怪物の骸、そして怪物に貫かれ息絶えたジョン、あんな汚らわしいものをもう一度見なければならないのかと、僕は今更ながらここに来た事を後悔した。しかし、一方で祖父ならあの怪物が何なのか分かるのではないかという思いがあった。
あの図鑑やテレビでも見たことのない謎の存在。
僕はあれに強い嫌悪感を抱いていたが、その正体を知りたいとも思っていた。
「なんじゃ……この臭いは」
そんな僕の期待を背負わされたとは知らない祖父は、鼻を二本の指でつまみながら露骨に不愉快そうな表情をしていた。
やはりこの悪臭は強烈で、僕も鼻を手でおおった。
今まで僕の数歩後ろにいた祖父は先に進んで、竹林の奥にある怪物がいた例の場所へと向かっていく。
茂みを超えてあの開けた場所にたどり着くと、そこにはあの怪物とジョンの骸があった。
一日経ったせいだろうかジョンの体を貫いた怪物の突起は折れており、ジョンは怪物と重なるようにして互いに無残な姿を晒していた。
「……なんじゃ、コレは」
その二つの骸を前に祖父はただ立ち尽くしていた。
「おじいちゃん、あれだよ。あれがジョンを殺したんだよ」
僕は怪物を指さしてそういった。しかし、祖父はどうすれば良いのかと困惑してしばらくその場を動かなかった。
見たことのないあまりに呆然とした大人の姿に、僕はただ祖父を見つめる事しかできずにいると、そんな僕の視線に我に返ったのか、祖父は僕を一瞥するとそっと骸たちに近づき、ジョンと怪物の前にしゃがみこんだ。
「確かに、突き刺さってるな」
ジョンの体に突き刺さった怪物の杭のような突起をしげしげと見つめながら祖父はそう呟き、僕はそんな祖父の後ろから二つの死体を覗き込んだ。
僕はそこで、ジョンと怪物の死体の大きさがあまり変わらない事に気が付いた。昨日の怪物は大型犬ほどの大きさだったのに、今は子犬のジョンと変わらない程だ。
「おじいちゃん、怪物が昨日より小さくなってる」
「そんなわけがないだろう」
嘘は言っていないのににも関わらず頭ごなしに否定され、これ以上何かを言って否定されたくなかったので、僕はもうそれ以上何かを口にしようとは思わなかった。
木漏れ日が落ちるこの場所にはジョンと怪物の死体と立ち込める不愉快な悪臭、そして遠くからわずかに聴こえる蝉の声しかなかった。
「……ふぅむ」
首を振りながら立ち上がり、祖父はジョンと怪物の亡骸を見つめた。
その眼差しは、目に映る存在に対して不気味さを感じている事を明確に示していた。
「ジョンを連れて帰ろうと思ったが、コイツらはここに埋めてしまおう。きっと、その方が良い。何よりコイツらを連れていったら、臭すぎて周りに迷惑をかけるかもしれん。ジョンの墓くらいは建てておく、それでいいな?」
それは提案というよりも、そうしてしまおうという物言いで、僕をジッと見つめるその顔には、反論は許さないという迫力があった。
つまりこれ以上、得体の知れない事に深入りしないと祖父は決めたのだ。
祖父の圧に気おされた僕は無言で頷いた。
「よし、じゃあもう帰ろう。そのあと、わしはコイツらをここに埋めてくる。いいか? ジョンは山から来た動物に襲われてしまい、ジョンの死体は動物が持ち去った。そういう事にしておこう。それが一番ええ」
僕は驚いた。
大人が真実を隠す為に、はっきりと嘘をつこう言い出すのを初めて見たからだ。
みんなに嘘をついて良いのかと口にしかけたが、そう言う前に祖父は僕の手を引き、僕らはその場を後にした。
家に帰ると祖父はシャベルを持って一人また竹林に向かっていったが、それからどうなったかは僕は知らない。
祖父はそれ以降の事を僕に語らなかったし、何より誰もジョンが死んだ事件の事を追求しなかったからだ。
祖父がうまい事やったのか、あの怪物の存在は誰にも知られず、ジョンが死んだ事も不幸な出来事としてあっけない程簡単に済まされてしまった。
そうしている間に、両親が僕を迎えに来て田舎から別れる日がやってきた。
別れ際祖母は名残惜しそうにしていたが、祖父は僕をジッと見つめていた。
思い出してみると、二人で隠した事は決して口外するなと伝えようとしていたのかもしれない。だが当時の僕は田舎を去る時にいつも見送ってくれる愛子ちゃんがいない事で頭がいっぱいだった。
僕は走り出す車から顔を出し、彼女を探し続けたが、その姿を見つける事は無かった。
そんな不気味なひと夏を過ごしてしばらくした後、愛子ちゃんは父の仕事の都合でどこかの町に引っ越してしまった。
その知らせを聞いた僕は胸にぽっかりと穴が空いたような気持ちになった。あの何もない田舎で、僕の心を満たしてくれたのは愛子ちゃんと過ごす時間だけだったからだ。
祖父母が用意してくれたスイカを愛子ちゃんと一緒に食べた事。公園で愛子ちゃんと息が切れるくらいに駆け回った事。互いの持っている本を交換し読みあった事。
二人で見たあの怪物の骸さえも、その時の僕にとっては愛子ちゃんとの日々を彩る思い出の一つに思えた。
そんな日々はもう戻ってこないのだと知った時、僕は無意識に家の窓から夕暮れの空を見上げた。
いつも以上に空を深い紅に染め上げる夕日があった。
終わりを告げる赤い輝きに僕は思わず目を伏せた時、僕は恋しさというものがどんなものであるかを理解した。
恋しさという気持ちは胸に宿る想いではなく、彼方へと飛ばす願いなのだ。
誰にその願いを飛ばしたかは考えるまでもない。だが、何を願ったのかは思い出せない。
ただ、恋しさを教えた夕日の赤さが記憶に深く焼き付いて、それからというもの僕にとって赤は、終わりを想起させる特別な色となった。
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