第1話 骸
夏休みに入ると、決まって両親は祖父母の家に僕を連れていき、一週間ほどそこで僕を過ごさせた。
それは両親がたまには僕のいない時間を楽しみたかった事と孫と一緒に過ごしたいという祖父母の願いが、うまく嚙み合わさった結果だと知ったのは大きくなってからだ。
そこは僕が暮らす都会とは全く違う静かな田舎で、最寄りのお店に行くのにすら歩いて30分はかかる程に周囲には何もない所だ。それでも僕は寂しいとか退屈だと思ったことは一度もない。
何故かといえば、祖父母の家の向かいに住む愛子ちゃんという僕と同じ年齢の女の子がいたからだ。
彼女と二人で遊ぶことが、この田舎に来る楽しみの一つだった。
祖父母の二人には悪いけれど、愛子ちゃんがいなかったらきっと僕は退屈な日々を送っていただろう。
怪物を見たあの日も、僕たちは一緒に大きなザリガニを探しに近所の竹林の奥にある池へと足を運んでいた。しかし、その年の僕はある不満を募らせていた。
その不満とは、愛子ちゃんが去年のクリスマスに両親から与えられた子犬のジョンに夢中になっていたからだ。
愛子ちゃんは愛情たっぷりにジョンの頭を撫でて、ジョンは嬉しそうに尻尾を振り回している。一方僕は池の前で一人でザリガニ取り。不満を持つなと言うのは無理がある。
いっそどこかに行ってくれないだろうかと考えていた時、ジョンが突然茂みの方へと吠えだした。
茂みの向こうにいる何かに強く警戒を示し、ジョンは茂みの方に走り出して竹林のさらに奥へと消えていった。
愛子ちゃんはジョンの名を呼びながらその後を追い、僕も愛子ちゃんに続いた。
ジョンを追いかけていると、凄まじい異臭が僕らの鼻に届いた。
その異臭は嗅いだことのないにも関わらず、どんなものよりも嫌悪感を抱かせ、僕らは思わずその足を止めた。
鼻を両手でおおった愛子ちゃんは何も言わず視線だけを僕に向けた。
ジョンを追いかけたいけど、ジョンの走った先から漂ってくる臭いにはこれ以上近寄りたくない。
愛子ちゃんの不安そうな視線から、そんな事を考えているのが手に取るように分かった。
「……行ってくるね」
僕はそう言ってハンカチをポケットから出し、改めて鼻をおおって、一人でまた竹林の奥へと歩みだす。
あの時の僕は、一体何を考えていたのだろう。
愛子ちゃんにかっこいいところを見せたかったのか。それともこの臭いの正体が気になったのか──今ではもう、思い出せない。
ただ、ジョンの吠える声の方に向かった方が良い、という気持ちがあったのは覚えている。
ハンカチ越しからも僕の鼻に届く異臭に耐えながら僕はジョンの鳴き声が聞こえる方へと向かい、僕は辿り着いた。
ジョンとアレがいたあの場所へと。
そこは日が差し込む開けた場所で、僕は横たわるアレを目撃した。
未知の異臭、乱れた自分の息、夏の蒸し暑さ、頬を伝う汗、吠え続けるジョン。
そんな全てが突然遠のいていく、時さえもあの瞬間は止まったかのように感じられた。
何故なら僕の目の前に現れたそれは、どんなものよりもおぞましく、不気味で、残酷な姿をしていたからだ。
天道虫のような半球形の体は黒緑色で、大型犬くらいはあろうその胴体はあちこちに腫瘍のような大小の膨らみがあり、その歪んだ体は見る角度によって模様の変わる奇妙な外殻に覆われている。
目や手足のようなものはなく、その胴体から直接5本の爪か牙のような突起物があるが、どれも破損していて、まともに残っているものは一本だけだった。
あまりに異様な姿は、それが生物なのかと疑問すら抱かせるが、強い力で圧し潰された痕跡のある外殻が砕けた胴体からは、内臓のようなものが汚れた灰色の体液と共に飛び出ていて、その体液が周囲に悪臭をまき散らす凄惨な姿が圧倒的な死を見るものに訴えかけ、自身が生物である事を嫌というほどに証明していた。
目の前に転がるものはとても残酷で、見るべきではないものにも関わらず、僕は立ち止まり目を背けずに怪物の骸を、ジッと見続けている。
自分の意思が忌避を感じ取っているのに、行動が伴わない奇妙な感覚を覚えた時、僕の脳裏には愛子ちゃんの裸をたまたま見てしまった一年前の記憶がよぎった。
自宅から持参した花火で一緒に遊ぼうと愛子ちゃんの家に行った日、僕は愛子ちゃんの家に入れてもらった際、お風呂からあがったばかりの裸の愛子ちゃんと鉢合わせしてしまったのだ。
異性の裸を見て、僕は見てはいけないものを目にしてしまった事にすぐに気づいた。しかし、僕は直ぐに顔を背けられなかった。
僕は彼女の身体が見たかった訳ではない。ただ予想外の出来事に動揺し、身体が思うように動かなくなっていたのだと僕は信じている。
僕の体のコントロールを何かが奪い去ったかのような感覚。
その感覚が今まさに、怪物の骸を見た僕に襲い掛かっていた。
蘇った恥ずべき過去の記憶は僕の心をさらにざわめかせ、心が清らかな水と汚れた油に別れ、混ざり在ろうとするものの混ざりあえずに互いに蠢きあっている。
──今思うと、僕はこの時まともな精神状態じゃなかったんだろう。
ジョンもきっと同じく正常ではなかった。
なんせ人間の僕ですら参ってしまうような異臭にも関わらず、人の何倍も嗅覚の良い犬のジョンがその異臭の元で狂ったように吠え続けるなんて異常だ。しかし当時の僕はそんな事に気づかず、そんなジョンに苛立ちを覚えた。
乱れた僕の心を逆撫でするように吠えるジョンの声、それを僕は耳障りだと思ったのだ。
そこでようやく僕はジョンを追って来たのだと思い出し、すぐにジョンを抱えて、ここを去ろうとジョンへと近づく。
そして少しだけ……そう、本当に……少しだけ、時間が過ぎた感覚があった。
その間に何があったのかは思い出せない。まるで記憶が抜き取られたかのような空白があった。
次に覚えているのは、息を吞む誰かの声だ。
振り返ると怯える愛子ちゃんがいた。ドクンと自分の鼓動がとても強く鳴ったのを、僕は確かに覚えている。
「ジョン……?」
愛子ちゃんのその一言で、自分の鼓動が強く感じたのはジョンの鳴き声がないせいだと気付き、正面を向きなおす。
そこには怪物の突起に突き上げられ、絶命しているジョンの姿があった。
愛子ちゃんは僕の背中に隠れながら耳元で囁いた。
「なにあれ……? あれがジョンを?」
「……分からない」
ジョンは怪物のそばにいた。だから死んだと思われていた怪物はまだ生きていて、たまたま傍にいたジョンをあの突起物で刺し殺したのかもしれない。
それはありえない話かもしれないが、何があったのか本当に分からない僕は曖昧にそう言うしかなかった。
「ジョン……」
愛子ちゃんは泣いていた。
ぽろりぽろりと綺麗な涙がこぼれ落ちていく。
僕の前には汚らわしいものがあって、僕の後ろには綺麗なものがある。それは、さながら先ほどまでの僕の心情のようであった。
「帰ろう」
それなら綺麗なものを手に取りたいと思った僕は、愛子ちゃんの手を握った。愛子ちゃんは何も言わなかったが、ジョンを置いて帰るのを嫌がるそぶりも見せず、僕の手を握り返した。
その手からは夏の暑さとは違う柔らかい温もりがあり、それは僕の心を満たしていった。
殺されたジョン、死んでいた怪物、気になる事はいっぱいあったけど、その時の僕は気にもしなかった
何故なら愛子ちゃんの温もりだけが、その時の僕の全てだったからだ。
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