第2話 ホップステップ、転倒
6月。俺は家出をした。
詳細を語る気はないが、流石に人生初めてだった。
しかも匿ってくれるアテはインターネットの匿名掲示板で知り合った、顔も本名も声すらも知らない人の家。普通ならまずありえない条件。
それでもあそこで自殺するよりはマシだと思った。
「は〜い、到着しました〜」
知らない土地の知らない駅で降りて、知ってる知らない人と合流して、知らない道を歩いて到着した場所は、知らなくてデカい一軒家だった。
家の主——刈羽沙羅さんと名乗る若い青年に「ちょっと待ってね」とステイを要求され、立ち止まる。門に作り付けられた郵便受けにギッチギチに詰まった、宅配ピザやら整骨院やらのチラシから大事そうなハガキや封筒を器用に選別する彼を見て、敷地に入る前から生活感って感じられるものなんだな、とぼんやり思った。
その隙間からヒラリと落ちた封書に気付き、拾う。
表面には『稿画料支払通知在中 刈羽沙羅様』と書かれていて、教えてもらったSNSのアカウントで見た通り、彼は漫画家らしかった。
刈羽三十四、それが彼のペンネームだった。
発行部数トップの月刊少年漫画誌で連載を持っているのだと聞かされたときは心底驚いた。俺が知り合ったのは連載が始まって半年もいかないころだったが、明るく希望にあふれた作風でみるみるうちに人気を獲得し、今年の頭からはゴールデン帯でアニメも始まった。
そんなすごい人があんな世紀末みたいな掲示板に常駐していることも、ましてや自分より歳下であることも、こうやって居候として受け入れてくれたことも、出会ってから今現在に至るまでの全てが意味不明だった。事実は小説より奇なりとはよく言ったものだと、先人の言葉に感心すらした。
今生きてることすら全部嘘で夢かも……なんて世迷言を浮かべながらぼーっとしていると、刈羽さんが俺の手をとった。突然の人間の体温に動揺したが、向こうさんは1ミリも感情が動いていないようだ。
そのまま一緒に玄関のステップを上がる。
「ようこそ我が城へ。今日からあんたの城でもあるか。ま、できる範囲で楽に暮らしていこうよ」
刈羽さんは俺と手を繋いだまま、若者の一人暮らしには不相応な頑丈な玄関ドアの鍵を開けて「どうぞ?」と先に俺を中へと招いてくれる。
ドアを開けて家の中を一瞥した、その瞬間だった。
家出をしてしまった事実、今日初めて会った人の家、これからどうなるか1ミリもわからない未来。
その全部が今更、窓を開けたときの猛烈な風みたいに、全身に吹き込んできて。
ああ、俺、すごいことしちゃったんだ。
もう二度と戻れないんだ。
一度自覚してしまったらもうたまらなくなって。
急速に冷えていく四肢。耳からも聞こえるんじゃないかってくらいうるさく跳ねる心臓。ハッ、ハッ、という自分の浅い呼吸。
こんなにも体が活動しているのに、頭は真っ白だった。
なんとなくぼんやりと、死んだ珊瑚礁を頭に思い浮かべた。
「おい、大丈夫?」
刈羽さんが繋いだ手をブンブン振ったから、意識が帰ってくる。
俺は息を大きく吸って吐いて、改めて「すみません、お邪魔します」と呟き、土間に足を踏み入れた。
その一歩目で、無秩序に散らばった靴のひとつをえらくしっかりと踏んづける。
まずいと思ってあわてて後退すると、俺に続いて入ろうとした刈羽さんに後ろ向きにぶつかった。バックパックで体当たりをされた刈羽さんが「ぐえっ」とダメージボイスを出すもんだから尚のこと動揺して、足がもつれにもつれて靴の海にすっ転んだ。
あ————。
もう何もかもダメだ。
バカみたいな話だが、なんと俺はその場で泣いてしまった。
今日初めて出会った歳下の子の靴の上に尻餅つきながら、涙が勝手に滲み出てきて止められなかった。
ドア横で立ち尽くす刈羽さんがまんまるな目で俺を見ている。
申し訳ございません、意味がわからないですよね。俺もわからないです。
眼鏡を上げて目から溢れ出る涙を何度も服の袖で拭ううちに全てがどうでもよくなって、一周回って急に、初めてちゃんと刈羽さんの外見を見た。
背は俺より少し高いくらい。段になった髪が肩くらいまで伸びていて、オーバーサイズの黒いTシャツから覗く首も腕も、ハーフパンツの下に生える足も全部が細くて長い。ろくに運動をせずとも太くゴツくなりがちな自分とは対称的だなと思った。重たげな前髪から覗く瞳は揺れていて……と思ったけどこれは俺が泣いてるからだ。
そんなこんなで多分15秒くらい、無言で見つめあっていた。
で、その沈黙を破ったのは刈羽さんだった。
「……ふ、はは、ひゃはははは!!」
腹から声を出しながら笑って、しゃがみこむ。俺の顔を覗いてから、刈羽さんはまた笑った。
その笑った顔が彼の描く漫画の主人公にそっくりで、なんだか妙に感動してしまって、さらに泣いた。
笑い声のほうは悪魔みたいで、そっちはアニメで聞く音と全然違った。
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