三十四、惜しかったよねえ
ナキエイドー
第1話 おじさんお兄さん
「あの……えと、『三十四さん』……ですか」
6月で、空気はじっとりとしていた。
何駅もすれば海が見えるような土地の、30分に1回各停の電車が止まるくらいの駅。その改札の前で、僕は友人と待ち合わせをしていた。
友人って言っても、会うのは初めて。もともと匿名掲示板のダメ板(調べなくていいよ、泣きたくなるだろうから)で知り合って、なんとなく気が合ってSNSのアカウントを教えた。
おっさん最初は驚いてたな。僕の本垢、10万くらいフォロワーいるから。
まあそれはよくて、とにかく僕はその人──『hyperojisan』とかいうふざけたアカウント名の、顔も本名も知らない友人を我が家に招いたのだ。
なんでって? 蒸発だよ、蒸発。
「なんだよ、ハイパーおじさんとか言う割に全然若いじゃん。いくつよ?」
「えと……27、です」
「27ぁ!? おじさんじゃねーじゃん! 僕の3コ上だ」
「あ、いや、す……すみません」
「あはは! なんで謝るのさ」
どきまぎする目の前のおじさんお兄さんは、せいぜい1泊2日ぶんくらいのキャリーケース片手にバックパックを背負っている。もう二度と実家には帰らないってのに荷物少なすぎない? 僕んち見たら泡吹いて倒れるかもな。漫画みたいなゴミ屋敷だから。
その旧式だが真新しい灰色のキャリーケースをひったくって、僕は我が家方面の出口目指して歩き出す。おじさんお兄さんは目をキョロキョロ泳がせながら「あ、」とか「あの、」とか言ってついてくる。
あ、なにもないとこで躓いた。
「うち、死ぬほど汚いけど勘弁ね。とりあえずあんたにあげる部屋だけは最低限片付けたけど……まあ、不衛生なものくらいは」
エレベーターの下へまいりますボタンを押して、キャリーケースのあの……持つとこの長さ変えられるボタン、あれをカチカチ遊ばせながら友人に伝える。
友人はこの短い道中でほどけたらしい靴紐を結直しながら「汚くても全然」と慮ってんだか舐めてんだかわからない返事をした。そうそう、こういうとこがいいなって思ったんだよね。
「あの……ありがとうございます、俺みたいな……名前も顔も知らなかった人間に、声かけてくれて」
「ん? だぁから全然いいんだって。部屋余ってたし、使う暇なくて金も余ってるし。1年くらいはダラダラ生きてていいよ?」
「そ、そんなわけには」
エレベーターから出てきたベビーカーが過ぎ去るのを待って、2人で乗り込む。下へボタンを押して、矢印が向かい合わせになったボタンを押す。
正午を過ぎたあたりだっていうのに梅雨の外界はどんよりと暗かった。雨が降ってないだけマシだが、この季節は髪とか服とかペタペタはりつくし絵の具もすぐ腐るから気が滅入る。
だからかな。新しい風みたいなのが欲しかった。
「そだ、名前教えてよ名前。ハイパーおじさんじゃなくて、本当のほう」
割と新しめの住宅街だから道は細かい粒子で舗装されてて、キャリーケースのコロは存外静かだった。で、曇りだから影が落ちなくて、僕ら、生きてるかどうか曖昧なかんじがした。
ふはは、そりゃ僕だけか。主語でかだったかも。
「僕は刈羽沙羅(かりわ さら)。女みたいな名前だけどいちおオスね」
横並びにすらならずひたすら3歩後ろを歩く、いにしえの理想の嫁像みたいな距離感の彼に振り向きながら言う。え、ずっと足元見てたんだけど。こんだけキレイなんだからコケないって、田舎の砂利道じゃないんだからさ。
……って、あ、躓いた。なるほど了解。こういう人ね。
彼は転ばずに済んで安堵……ってかんじに左手で胸をおさえながら、おそるおそる僕の顔を見て、息を吸った。
濁った空の下にある空気がおいしくなかったのか、目をぎゅっと瞑って、開いて。
そして僕に、絞り出すような声で教えてくれた。
「は、花立典明(はなだて ふみあき)です」
だから僕も、笑顔で迎えた。
「今日からよろしくね、えーと……ふみちゃん」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます