【あるふたつのはじまり】


 世界に降り注ぐ雪は、夜の闇を覆い隠し、すべての音と動きを封じ込めてしまった。


 ひとひら、またひとひら。


 空から大粒の白い結晶が落ちてくる。それは時間の流れさえも絡め取ってしまいそうなほどに重く、深く、静かに降り積もっていく。

 

 肌を刺す凍てついた空気。凛とした香り。冷たさと共に漂うその白い無音のベールは、穏やかな一瞬を永遠に変えた。


 公園に積もる雪も、まるで誰にも触れられていない純白のキャンバスのように静寂を保っている。


 その隅に立ち尽くす女は幽鬼のように、時間に取り残されたまま、ただひたすらそこにあった。

 

 俯いたまま、そこから動かない。


 それは疲れきった体が、ひどく重たかったから。冷たさが骨にまで染み渡り、心さえ凍りついていたから。どこにも行けず、何もすることができないから。


 いつの間にか、女の周りから、雪上の足跡も消え去った。まるでそこだけが、世界から切り離されている。


 どれだけそこに立っていたか、女はもう数えていなかった。


 しばらくして、雪を踏みしめる小さな音が近づいた。


 女の周りを包む静寂が、何者かに破られる。

 

 視界の端に、小さな青い靴が映り込んだ。ゆるゆると顔を上げた女の前に、幼い女の子の姿があった。

 

 まだ小学校にも通っていないような年齢の子どもだった。


 女は、視線だけを動かして辺りを見渡した。人気はない。ただ静かな夜と白雪がそこにある。大人はいないようだ。


 深夜を回った公園に、小さな女の子が一人でいる。その事実を疑問に思っても、それを指摘できるほどの余裕も、今の女には無かった。

 

 黒髪を雪で白く染め、あどけない表情のまま、少女は真っ直ぐ女のことを見上げていた。

 

「傘、さしてあげる」


 その声は雪の静寂を破ることなく、静かに、そっと耳に届いた。

 

 少女はぐっと手を伸ばして、さしていた青い傘を傾けた。背の高い女の頭上には到底届かない。押しつけられた傘が、女の胸元にぶつかる。


「かがんでくれないと、とどかないよ」


 女はしばらくの間、その小さな声を無視していた。

 

 どのくらい無視していただろうか。けれども一向に胸元から離れる様子の無い青に、しぶしぶとその場にしゃがみ込む。なぜ、そうしたのかも分からなかった。

 

 冷たい雪が不思議と遠ざかる。

 

 少女が隣に座った。

 

 女は、少女の行動に戸惑いながらも、その傘を受け入れるように身を寄せた。んふふ、と。となりから小さく笑う気配が聞こえる。

 

 少女は片方の手袋を外すと、女の凍えた手にそっと押し当てた。

 

 小さな手は温かく、信じられないほど優しかった。

 差し出されるままに、女はその手袋を受け取る。

 

 その瞬間、ほの暗い彼女の心に、一筋の光が差し込んだようだった。


 お互いの片方の肩が触れあって、そしてもう片方の肩が濡れる。


 冷たさが半分になり、じんわりと触れる肩に暖かさが広がる。ずっと感じていた冷たさがゆっくりと溶けていく。——まるで氷が解けて水になり、再び流れ出すような心地が、胸の奥でじんわりと広がった。


 少女はさらにポケットからくしゃくしゃの何かを取り出すと、微笑みながら手渡してきた。よく見ればそれは小さなチョコバーだった。

 

 無垢な笑顔は雪の中に現れた一輪の花のようだ。凛とした可愛らしさが、静かにそこに存在していた。


「これもあげる」


 彼女の声に込められた静かさが、女の凍りついていた心に柔らかな波を起こした。


 女は、その小さなチョコバーを受け取った。突然現れた名も知らぬ少女に、今この瞬間だけは、何もかも救われたような気がした。


「……あり、がとう」


 振り絞った言葉は、冷たい空気に解けていった。


 

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