第一話「青い炎 / The Blue Flame」

01


 一.


 魔法、またはそれに準ずる物により、我々は、不当に人間を殺めてはならない。





 序章:【The Blue Flame or The Nightmares】





 夏に焼かれていた。


 圧され溶かされる蒸し暑さが今日もやってくる。


 真上から降り注ぐ日射が、ジリジリと肌に突き刺さっていた。まるで石焼き釜の上に立たされている。茹だつ全身からは汗が滲み出ていた。


 ハンカチで汗を拭っても、そのままにしても、上がった体温は一向に下がりそうにもない。身体中の水分が奪われて余計に気怠かった。


 凪いだ暑い夏。

 日陰にいるというのに、熱を帯びた空気が澱んでいる。


 どこまでも澄んだ青い空には雲一つなく、三十分前から借りている土産屋の軒先につる下がった風鈴の短冊さえ、ひとつも揺れやしない。


 遠くのコンクリート上には陽炎が揺らめいて、平日の道をだるそうに歩く人の足元をぼやかしていた。


 ――またか。


 ああ、これは今日も駄目だな、と凛は思った。


 せっかく巻いた前髪も崩れ、海藻みたく額に張り付いている。


 凛はべっとりと張付いたミルクティーベージュの髪を指先で払った。駅前に並ぶ店の窓硝子に向き合って、なんど汗を拭いながら髪を整えただろう。


 久しぶりに会うからと気合いを入れたのに、こんなにも暑いなら、やめておくべきだった。


 さっきまで入っていたカフェに居続けていれば良かったが、この暑さに誰もがシェルターを求めて混み合う中、二時間以上も居座るのはどことなく落ち着かない。


 唯一良かったと思ったのは、涼しげな紺のフレンチスリーブシャツを着てきたこと。暑いなら白い色の服を着てくればよかったと思う反面、汗が目立たない。


 凛は首筋に浮かんだ汗を拭った。


 身につけていたネックレスのチェーンが指に引っ掛かり、それを指先で掴んで持ち上げる。

 

 光に当たると水面のような光を放つ青い硝子。ブリリアントカットの偽物の宝石。誕生日のプレゼントに貰ったものだが、硝子がキラキラと光るたび、かえって惨めな気分になってきた。貰った時は、いちずに、ただ、嬉しかったのに。


「……待つことぐらい」


 首元の襟を掴み、パタパタとなけなしの風を送りながら、凛は携帯電話を取りだした。


 メッセージなし。着信なし。


 凛の口からそっとため息が零れた。


 もしかしたら来るかもしれないと馬鹿みたいに思った自分が嫌になって、凛はもう一つため息を吐き出した。


「うーん、またかぁ」


 メッセージアプリを開いて、指を動かす。『今日の約束、忘れた?』と『ごめん、急ぎの用事が入った。今度埋め合わせする』。スクロールをしていけば、二つのやりとりが数回目について、凛は心の中で唸った。


 埋め合わせができるほど、もうこの穴は小さくない。


 その前もその前も、予定はすれ違って、予定を入れれば向こうに急用が入って。向こうが忙しいことも知っている。こちらもバイトと授業でギリギリなのも分かっている。我が儘を言うつもりもない。だけど――。


「ま、仕方ないか……」


 ――どこにいるの、と打ってから消して、もう別れよう、と打ち、また消した。


 彼、市ノ瀬優翔と付き合い、一年と数ヶ月が経つ。


 大学の授業で同じグループになったのが切っ掛けだった。告白は優翔からだった。


 恋愛経験が無い凛でも、優翔からの好意は目に見て分かった。恋愛猛者の友人達でさえ、優翔から感情が、誰の目にも明らかであったと言わしめるほどだった。


 二人は恋人になってからもそれなりの時間を過ごしていたし、なにより一緒にいることが楽しいと凛は思っていた。つい、二三ヶ月前まで。


 ――何がいけなかったのだろう。


 潮時だと思う自分がいる。仕方ない、と思う自分もいて、その理由を考えることもなかった。

 

 迷った挙げ句、『今日、約束してたの、忘れちゃった? 連絡待ってるね』と一投目を打つ。そのまま携帯を閉じて鞄に放り込む。ついでに汗に濡れたネックレスも外して鞄に入れた。


「うーんっ、よし! もう考えるのやめ!」


 パチリと頬を挟んで、空に向かって大きく手を伸ばした。仕方ない、仕方ない。そう思いながら帰ろうと思って歩き出そうとした。


 ピロロン。


 鞄の中から軽い音が聞こえてくる。

 凛は肩を跳ね上げた。急いで携帯を探し、暗くなった画面の電源を入れる。


『ねぇ今日ひま? これから遊び行かない?』

「あ……、あー、あぁ……。あっちゃん、か」


 画面に表示された名前はアサヒ。


 大学で仲良くなった東堂朝陽だ。凛は五秒ほど画面を眺め、返事を打った。




 ✧• ─────────── •✧




「別れなって何度も言ったじゃない。どーして別れないの? もしかしてまだ好きなの?」


「う……うーん」


「ハァーッ! 煮え切らん」じっとりと座った目で朝陽は言う。「あんた、にもほどがあるって」


「う、うん……あっちゃん、それを言うならお人好し……」


「あーうん! ほんっと、おひとよし!」


 憤慨するように朝陽が大声を出す。店内にいた客から痛い視線が突き刺さり、凛は「声がでかいって」と声を潜めて言った。


 落ち着いた雰囲気のあるシックな店の中には、ゆったりとした音楽とクーラーががんがん働いている。外に比べれば天国のようだ。

 

 平日の夕方だと言うのに、暑さにやられて逃げてきたのか、店内には二人以外にも大勢の客が訪れている。


 駅近というのもあるだろう。その一時を誰もが穏やかに過ごしていた。


 凛と朝陽を除いて。


「ごめん、つい……」


 朝陽はちらりと周りを見ると申し訳なさそうに身を縮めて、食べかけのガトーショコラをひとかけら分、フォークで切った。


「で、なに? 結局二時間以上も待ってたってこと?」


「うーん、まあ。そうなの。待つのは嫌じゃないけど」


 凛は目の前に置いてあったカフェラテのカップを持ち上げた。が、その様子に朝陽が恨み募った鋭い視線で凛を見た。


 朝陽は大学でも一、二を争うキレイ系の美人だった。美人にすごまれると、同性の凛でさえ、いつもドキリとした。


「そういう時はすぐに帰りなさい。この前もその前もドタキャンしたじゃない。やっぱりあいつはダメなんだって!」


「良い人なんだよ。思いやりもあるし、考えも尊重してくれるし」


「いくら顔が良くて、優秀で、性格もよくたって、いつかは人間変わるモンなんだから。それか絶対ウラがあるの!」


「お、おちついて、あっちゃん」


「あいつ、凛を傷つけて――」


「……ま、ほら、もしかしたら連絡できなかったのかも。前はバイト忙しいって言ってたし」


「それ、この間もそう言ってたけど?」


 カップを置こうとしていた手を止めて、凛はうっ、と言葉に詰まる。確かにそうだ。


「もしかしたらこうなるかなーって、思ってた」


「いい雰囲気だったのに。……もしかして、浮気?」


「そうかもね。まあ、でも、過ぎれば気づくことだってあるよ」


 なにもなしに凛が言うと、朝陽がケーキの真上からグサリとフォークを刺す。


 その容姿に似合った綺麗な食べ方をする朝陽には、とても似合わない所作だ。



 

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