序:【The Blue Flame, or The Nightmares】

【あるひとつのはじまり】



 

 ごうごう燃え上がる蒼い炎。

 鼻につく嫌な匂い。

 ぱちぱち全てが焼ける音。

 肺に突き刺さる熱い波。


 ――なんで、こうなったの?


 少女は青い焔の海を眺めながら、ぼんやりとした思考の裡を漂っていた。

 

 頭のてっぺんから足の爪先まで、もう感覚は残っていない。青く熱い波に呑まれた時、うつ伏せになった身体の半身は、倒れた柱の下敷になっていた。

 

 降り掛かる業火の渦に黒い煙が巻き上がる。息を接ぐいとまもない。生き物のように荒れ狂う炎が全てを呑み込み、美しいアンティーク調の部屋を蹂躙じゅうりんしていた。


 母が気に入っていた緑の絨毯と真珠の壁紙。父の蒐集した古書。兄がよく弾いて聞かせてくれたピアノ。その運指に合わせていたヴァイオリン。

 

 その全てが轟々と青色に染まっている。

 

 熱い。熱い。熱くて、熱くて、渇いてしまう。瞼も開けて居られない。


 まるで可笑しな感覚だった。


 熱さが分からないはずが熱く、痛くないと思うのに痛い。渇きさえ感じていないのに干からびて、身体中の水分が全部無くなっていく感覚。そうか。体の内側が燃えているのだと、少女はそう思った。


 ――苦しい。


 炎と瓦礫の渦巻く中で、ただ死を待つように横たわる少女には、外へ逃げる力も残っていなかった。

 

 閉じてゆく瞼を必死に抑えながら、部屋の中を見渡す。


 遠くのほうで、父と母の亡骸が、絨毯の上に折り重なっていた。その下にも黒い塊が何人も折り重なっている。向こう側の真珠の壁紙には赤い液体のしぶきがべったりと飛び散っていた。


 父と母はこの熱さを感じていないのだろう。もう、そこにはいないのだろうから。

 

 同じように床に倒れ伏していても、青藍色に染まりあがった世界の中で、真っ黒に焦げた影だけがぼうっと浮かび上がっていた。


 ――苦しい。苦しいよ。

 

 ――お父さん、お母さん、こっちにきて。苦しいの。

 

 ――お父さん、お母さん。


 ――たすけて、たすけて、たすけてお父さん、お母さん、たすけて!


 少女は手を伸ばした。黒く重なる影は、木炭のように端から崩れていく。


 ――ねえ、なんで、何も言ってくれないの。


 ばちんっ。


 頭の上で何かが爆ぜた。


 ごうごう、炎が獣の唸り声を上げる。目の前でいっとう明るい火の粉が舞った。またたく間に蒼と黒のまじった夜空のような大きな火の波に飲み込まれた。


 ガラガラと何かが落ちてきた。耐えきれずに降り注いだ天井だった。

 

 黒く重なる影の山を落ちた柱が貫いた。大きな怪物の手のように蒼炎が襲いかかる。


 少女は乾いた瞳を動かして、その視界に映ったものに、焼き付いた喉を引き攣らせた。


 ああ。それは、人の形をしていた。

 

 そいつは書斎の入り口に立って、こちらを見て近づいてきた。部屋中から蒼い炎が噴き上がる。

 

 少女を見て、顔の辺りを歪め、手のあたりを大きく振り、足のあたりを大股で動かし近づいてくる。


 そこから目を離すことはできなかった。青い炎を纏った人影が、ゆったりとした速度で部屋を闊歩していく。目があった。そいつと目が合って――。


 ――死にたくない!

 

 少女は声にならない悲鳴を上げた。


 それがその時にできた唯一の足掻きだった。

 

 それはいつまでも尾を引いてくうを切り裂き、そして小さくなって、怪物が口を開けたような蒼い火の海へと消えていった。

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