第二話 静止した時間の館

 午後三時。だが空は鉛色に沈み込み、陽射しの輪郭はとうに見失われていた。山の斜面にひっそりと佇むその屋敷は、濃い森を背にし、まるで時の流れから隔絶されたかのように息を潜めていた。


 楠木光太郎は愛車のアストンマーティンを降り、鉄製の門扉の前に立った。重厚な黒い格子が彼を睨みつけるようにそびえていた。錆びつきはせず、油が差されたばかりのように滑らかだ。十年の歳月を経ても、この家は朽ちてなどいなかった。それが、かえって不気味な静謐を漂わせている。


 門を開けると、敷き詰められた石畳が長く伸びていた。踏みしめるたびに、靴底から響く音が庭の空気に染み込んでいく。両脇の樹木は剪定され、枯葉ひとつ落ちていない。管理人の手が入っているのだろう。だが、それでも感じられるのは“生”ではなかった。むしろ、それは死体に施された丁寧な化粧のようなもの――腐敗を覆い隠すための偽りの美だった。


 玄関の扉は重く、開けると微かな軋みが響いた。その音が、まるで家そのものの呻きのようだ。


「……」


 静寂が光太郎を迎える。当然人の気配はない。だが“何か”がいる。そんな気配を光太郎の超感覚は捉えていた。


 廊下は長く、暗い。窓からの光が届くはずなのに、カーテンは分厚く閉ざされており、室内はほとんど夜のようだった。壁にかけられた絵画は、どれも抽象的で、何かを訴えかけるような瞳を持っていた。視線が背中を追ってくる気がして、光太郎は無意識に肩をすくめる。


 そして――居間。


 その扉の前に立った瞬間、胸の奥に何かが引っかかるような感覚が走った。まだ開けてもいないのに、空気の密度が変わった様に感じる。伸ばした右手が、ゆっくりとドアノブを回し、扉を開け放った。


「う、うっ……」


 時の止まった空間の気配が、光太郎の襲い掛かってきて思わず呻く。己の中の力が、ゆっくりと目覚め始めるの感じ、思わず左手を見た。愛用の皮手袋に包まれたその手、そこに彼の力が隠されている。


「……やはり、何かあるな」


 部屋は見事なまでに整然としていた。壁際には革張りのソファ、アンティークの調度品、ガラス戸の中に並ぶウイスキーボトル。カーペットは深紅で、火の灯らぬ暖炉の前に小さなテーブルが置かれている。


 床には何の痕跡もない。血の染みも、争ったような跡も。だが光太郎は、この部屋に何かが「あった」ことを確かに感じた。殺意ではない。もっと静かで、深くて、絶望に近い“諦念”のような残滓。


 彼は常にしている左手の手袋を外し、部屋の中央に立った。


 意識を集中する。呼吸をゆっくりと整え、心の表層を捨て去る。そしておもむろに屈み込み、左手を床へとつけた。


「――――」


 彼の中に何かが入ってくる。時の記憶。ここいたものの強い思念――


 サイコメトリー――空間に残る人の残留思念や物に刻まれた時の記憶を読み解く能力。それを光太郎は僅かながら持っていた。左手に直接触れた物からそれを感じ取る。とはいってもそれほど強烈な力ではない。抽象的なイメージを感じ取ることがほとんどだ。そこから先は、探偵としての彼の推理力が補い、具体化していくのだ。

 その能力故に、彼は警察が見捨てた迷宮入り事件の関係者からの依頼を受け、その解決に挑む事を生業としていた。


「何かが……、これは、本? 赤い背表紙の……」


 視界の奥にそれが浮かぶ。それが何を意味するのかは、今はわからない。しかし、ここに残る思念が、真実へと導くヒントとして提示したに違いない。

 光太郎はゆっくりと立ち上がると、周囲を見渡した。ここにはそれらしき本はない。


「確か書斎があったな……」


 この屋敷の図面を思い出し、その場所を確認する。


「この隣か……」


 書斎へ向かい光太郎が歩を進める。


 外では風が鳴り始め、まるで何かが目を覚ましたかの様に、木々の葉がざわめいていた……


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