第三話 言葉の棺
書斎は居間とは異なる気配を帯びていた。空気が濃い。埃の匂いはなく、むしろ新しい紙とインクの残り香が混じり合っている。まるで主人の気配が、まだそこに息づいているかのようだった。
壁一面を占める書棚。その木目は深く、黒ずんだ赤褐色が艶やかに沈んでいる。千冊は下らぬ蔵書が整然と並べられている様子は壮観だ。
光太郎は無言でその前に立ち、目を閉じた。本棚の一つに左手を当て、再びサイコメトリーの感覚を研ぎ澄ませる。思考ではなく感覚。論理ではなく、残された“声”に身を委ねる。
すると、闇の中にひときわ鮮烈な“色”が立ち上がった。
赤――
赤い背表紙。鮮血のような色。厚めの単行本サイズ。背の下部に擦れた跡。先程よりも鮮明だ。そのものが近い証拠――
光太郎は目を開き、棚の中央段に指を伸ばした。左右を丹念に撫でるように視線を送る。そして、ぴたりと止まった。
あった……
『屍語りの夜』。亮介の四作目。あまり売れなかった中期の一作。表紙は確かに赤。だが、それだけではない。彼の指先がその本に触れた瞬間、かすかに、何かを感じた。
抜き取る。すると――
かちゃり……
小さな、金属の留め金が外れるような音。
「……何だ?」
光太郎は周囲を見渡す。だが本棚には目立った変化はない。ただ、胸の奥にもうひとつの波が押し寄せる。
――呼ばれている
別の本が、彼に手を伸ばしてくるような錯覚。微かな熱のような感覚が、棚の左端へと導いていく。今度は『言葉の遺構』。装丁は黒。だが、表紙に一筋、朱のペンで引かれたような線――それが“血”に見えた。
それを手に取ると、再び――
かちゃり……
確信に変わる。
これはパズルだ。亮介が残した、意図的な仕掛けだ。彼の物語のように、伏線を巡らせ、読者に解かせるために作られた
光太郎は次々と“呼ばれる”本を抜き取っていった。一冊、また一冊。計五冊。
最後の一冊を引いた瞬間――
ガシャン!
本棚の下部、飾り棚として装飾されたパネルが外れ、軋むような音を立てて手前にスライドした。そして、その奥から、ひとつの引き出しが“飛び出す”ように現れた。まるでそれ自体が意志を持っているかのように姿を現す。
「……」
光太郎は無言のまま身を屈め、中を覗いた。
そこには、革表紙の古びたノートが一冊。
「……日記帳か?」
手に取る。重みがある。指先に、微かな熱が残っていた。中を開くと、濃紺のインクで書かれた文字がびっしりと連なっていた。万年筆によるものだろうか。丁寧な字。だが、後半に行くにつれて乱れていく筆跡。それはまるで精神の崩壊を写し取るかのようだった。
『2013年12月15日
また同じ夢を見た。
誰かが俺を見ている。首を切り落とされた俺を
これは予兆なのか? それともただの、想像力の暴走か?』
『2014年5月3日
書けない。書けない。
何も浮かばない。俺の中の殺人者たちは死に絶えた。
俺は空っぽの肉袋だ。』
『2015年2月26日
今日で、終わりにする。
誰にも知られず、静かに消える。
だが、真実だけは……ここに残す。
誰かが、いつか、この棺を開けるだろうか。』
光太郎は、最後のページで手を止めた。そこに、インクで書かれた一文。
『死は逃げではない。再構成だ。俺はこの物語の、最終章を自らの手で閉じる。』
そこには“死の覚悟”があった。彼はおそらく、自ら命を絶ったのだ。だが――それにしては、発見された遺体の状態が奇妙すぎる。
「まだ解けぬ謎が残っている……」
光太郎が思わず呟き、眉間に皺を寄せた、その時――
「……そんなところに、あったのね」
背後から掛けられる声。女の、低く、押し殺したような響き。
「――――!?」
光太郎が反射的に振り返る。
扉の影から、ゆっくりと姿を現す一人の女性。その右手には、冷たい金属の鈍い光――ピストルを携えていた……
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