首の行方を求めて ~迷宮事件探偵・楠木光太郎の事件簿~

よし ひろし

第一話 首なき晩餐

 雨音が、喫茶店の窓に細い指を這わせていた。夕暮れにはまだ早いはずの時刻だったが、灰色の雲が空を占拠してしまったせいで、街はすっかり影を落としている。


 楠木光太郎くすのき こうたろうは、使い古したマグカップから冷めかけたコーヒーをすすった。苦味だけが喉に残る。口の中でその苦味を転がしながら、対面に座る老夫婦の皺の奥を見つめていた。女の方は震える指でスカーフの端をいじっている。男は背筋を正していたが、眼差しは何かを堪えるように曇っていた。


「――十年経ちましたが、息子の首は、まだ見つかっておりません」


 男の声は低く、削られたような音をしていた。名前は夏目稔なつめ みのる、元大学教授。隣に座るのはその妻、文子ふみこ。亡くなったのは彼らの一人息子、夏目亮介なつめ りょうすけ――人気推理小説家だった男、いや、今も一部カルト的な人気を誇る人物だ。


「遺体は、確かに亮介のものでした。DNAも一致していたし、あの家も鍵がかかっていた。誰も侵入した形跡はなかった。警察も自殺の可能性が高いと言っていたんです。でもね……」


 文子がか細い声で続ける。


「首だけが、どこを探しても見つからなかったんです。まるで、誰かがそれだけを持ち去ったように……」


 光太郎は、指でテーブルを一度、軽く叩いた。夏目亮介が今も人気を誇るのは、この死に様にある。まるで自らの小説になぞられたような猟奇的な最期――そのせいか、今でも彼の原作で映画やドラマ、アニメが作られている。


「殺人の可能性を、警察は否定した?」

「初動ではそうでしたが、明確な他殺の証拠もない。死因は“窒息死の疑い”と記録されています。首がないのだから、首を絞められたのか、吊ったのか、それすら断定できない」


 それがこの事件を迷宮にした。証拠の不在。動機の不明。死に至る経緯の不透明。まるで首と共に、真相そのものが掻き消えたようだった。

 マグカップを口元に運び、コーヒーを多めに含む。その苦さで思考を明確にし、記憶の底から事件の概要を引き出していく。十年前の当時、彼はまだ刑事だった。担当はしていなかったが、その騒ぎは覚えている。


「――十年経って、なぜ今なんです?」

「……先日、夢を見たんです」


 文子がつぶやくように言った。目を閉じて、夢の中をなぞるように。


「亮介が……首のないまま、あの家の居間に立っていて、“見つけて”と私に言うんです。何度も、何度も……。私たちは、やはり何かを見落としていたのではないかと思ったんです。せめて、首だけでも――事件の真相などどうでもいい。首を、息子の首を探して出してください、探偵さん。あの子をゆっくり眠らせてあげたい……」


 そう懇願する母の目には涙がにじんでいた。

 光太郎は黙って、その言葉を受け止める。夢や幻覚――そんなものを証拠とは呼ばない。だが、十年経っても消えない声がある。それが人の心を押し動かすとき、迷宮事件探偵の仕事は始まるのだ。


「その家は、今はどうなっていますか?」

「空き家ですが、管理は続けています。当時のまま……手をつけておりません。亮介が最後に過ごした空間を、そのままにしてあります」


 光太郎は、再びコーヒーをすすった。苦味の中に新たな味を感じる。――死と秘密の味。時間の止まった部屋に謎を解くカギは隠されている。


「わかりました。まずはその家を見せてください。十年前の空気が、まだそこに残ってるなら――俺が嗅ぎ当てましょう」


 文子の目に、光が差した。僅かな希望。しかし、真実とは時に残酷だ。その希望の光が闇へを落ちないことを願いつつ、光太郎は老夫婦を見送った。

 老夫婦が店を出たあと、光太郎は懐から煙草を取り出し口にくわえた。そこで気づく。長年通い詰めているこの店が最近禁煙になったことを。愛煙家にとって肩身の狭い時代だ。仕方なしに、そのまま火を点けずに煙草を咥えたたままにした。


「……」


 首なしの亡霊…お前は、まだその家にいるのか……


 光太郎はこれから訪れるであろう事件現場の家を思って、窓から空を見あげた。

 外は相変わらず、冷たい雨が降り続いていた……


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