消えたスケッチブック

尚人(なおと)は、美術室の隅で埃をかぶっていた一冊のスケッチブックを偶然見つける。


ページをめくると、そこには誰かが描いた「存在しない風景」たちが並んでいた。

水面に咲いた花、宙に浮かぶ観覧車、星の見える地下鉄のホーム。

現実にはないのに、なぜか懐かしくて、胸がぎゅっとなる。


その夜、尚人は夢を見た。

スケッチブックに描かれた世界に、自分が立っていた。


そして、そこにひとりの少女がいた。

風が吹くたび、瞳が揺れるような静かな子。名前は「澄音(すみね)」。


「…久しぶりだね」

「え、僕、君に会ったことあったっけ?」

「――ううん。私が、君に会ったことがあるの。」





夢の中で出会うたび、尚人は彼女といろんな風景をめぐった。

絵に描かれていた世界は、実際にふたりが過ごす“想い出”になっていく。


けれど現実では、尚人の周囲は何も変わらない。

ただ、夢を見るたび、なぜか胸の奥に柔らかい“想い”が積もっていく。


ある日、澄音がぽつりと呟く。


「私のことを、忘れないでね。

…現実に戻ったら、私の記憶は薄れていくから。」


尚人は混乱する。

夢だとしても、確かに彼女と過ごした時間があって、笑って、手を繋いだ感触だってあるのに





尚人は、美術室の顧問にスケッチブックのことを尋ねる。

顧問は言う。


「それは、50年前にこの学校にいた子のものだ。

澄音って名前だった。事故で亡くなったんだ。」


息が止まる。


けれど、尚人はもう知っていた。

彼女は“過去”の存在だった。

だけど、心は今この瞬間、夢の中で確かに隣にいた。





夢の中で、最後のページを彼女と一緒にめくる。


そこには、ふたりが並んで笑っている姿が描かれていた。

でも、それは尚人が見たことのない風景だった。


「これは、最後に君と見たい景色。

…夢でも、嘘でもいい。

この一瞬だけ、君と“未来”にいたかった。」


彼女の輪郭が、少しずつ滲んでいく。


「さようならじゃないよ。

だって、君が覚えていてくれる限り、

私は、ここにいる。」





目が覚める。

スケッチブックは、もうそこにはなかった。


でも尚人は、筆を手に取る。

あの日、彼女と見た景色を――一枚ずつ描き起こしていく。


誰も知らない、ふたりだけの記憶。

けれど、それは確かに存在した“愛しい時間”。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る