午前0時の手紙

僕の家の近所には、もう誰も使わなくなった郵便ポストがひとつある。

古びた赤い鉄の箱で、錆も浮いていて、投函口も少し歪んでいた。

町の再開発で周囲はすっかり新しくなったのに、そのポストだけが取り残されたようにポツンと立っている。


高校に入ってすぐ、僕は友達ができなかった。

誰かに話しかけようとするたび、喉が詰まる。

教室では「いい人そう」と言われるけど、その“いい人”は、誰の記憶にも残らない。


ある夜、眠れずに散歩をしていた僕は、ふとそのポストの前で立ち止まった。


「誰かに、何かを届けられるならな」


そんな思いつきで、家に戻って一通の手紙を書いた。

宛名もなく、差出人もなく、ただ「今日、自分が感じたこと」を正直に綴った。


そして深夜0時ちょうど、ポストに投函した。


翌日。

ポストを何気なく開けてみると、そこに一通の返事が入っていた。


「あなたの言葉、とても綺麗でした。ありがとう。」


丁寧な字で書かれたその手紙には、

「紬(つむぎ)」という名前が添えられていた。





それから毎晩、僕はそのポストに手紙を投函した。

誰にも見つからないように、午前0時ぴったりに。


すると、必ず翌日、紬からの返事が入っていた。


僕が学校でうまく笑えなかったこと、両親と話せないこと、ひとりでいる寂しさ――

全部を、誰にも見せたことのない本当の自分を、彼女にだけは伝えることができた。


紬の手紙は、いつも優しくて、強くて、美しかった。

彼女もまた、寂しさを抱えていた。

家族との確執、夢を諦めた過去、胸の奥にしまいこんだ痛み。


「言葉だけなのに、どうしてこんなにも、心が通じるんだろう」

僕は、彼女に会いたいと思うようになった。





やがて、手紙の内容に奇妙なズレが見え始めた。

季節の話題が合わない。ニュースが違う。

そして、ある日届いた一通にはこう書かれていた。


「今日は1983年、7月14日。空がとても青かった。」


僕の手が止まった。

最初は冗談だと思った。でも、何度もやりとりをするうち、確信に変わった。


僕と紬は、40年の時を隔てて手紙を交わしていた。


あのポストは、時間の狭間に立っていた。

午前0時にだけ、“あの夏”と繋がる扉だったのだ。


それでも僕たちは、手紙をやめなかった。

むしろ、日を追うごとに、お互いの存在が心に深く根を張っていった。





だけど、永遠なんてない。

手紙には突然、こう綴られていた。


「私、この夏で引っ越すことになった。

それからは、もう手紙を書けないの。」


僕は泣いた。

声を出さずに、ただ静かに、涙が机に落ちた。


最後の手紙で、紬はこう締めくくっていた。


「この時代に、誰かが私を想ってくれている。

それだけで、私はこれからを生きていける気がする。

ありがとう。君がいてくれて、本当によかった。」





それからもポストは、何事もなかったようにそこに立ち続けている。

でも午前0時に投函しても、もう返事はこない。


だけど僕は、変わった。

紬がいた日々が、僕を救ってくれた。

彼女に向けて言葉を書いた時間が、

僕に“自分”という存在を与えてくれた。


いつか誰かに、自分の言葉で寄り添えたらいい。

紬が、僕にしてくれたように。


今日も、あのポストの前を通るたび、思い出す。


ひとつの赤い箱が、40年の時を繋げた、奇跡のような夏のことを。

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