Road to the bitter end.

ハヤシダノリカズ

月は綺麗ですか

「言葉が持つ意味って揺らぐもんなんだよなぁ」

 男が呟いた。それは『いい天気だなぁ』と独り言をこぼす位の調子だ。聞くものがいようがいまいがお構いなしという声量と風情で彼は言い、そのままに話を続ける。

「例えば、『月が綺麗ですね』って男が女に言う時、そこには『あなたを愛しています』という含みがあるだろ?今では。夏目漱石がアイラブユーを和訳する時に『日本人の感性に合う訳は、月が綺麗ですね、程度が丁度いいと言ったとかなんとかだな。これも本当は夏目漱石が言ったものではないとかどうとか所説あるらしいが」

 下地の白が透けて見える薄い緑色で四方を塗りこめられた部屋の中には男が二人。一人は先ほどから話し続けている男。もう一人は無言で窓の外を眺めている男だ。

「迷惑な話だぜ。素直に月が綺麗だと言いたい時に言えなくなっちまう。愛だの恋だのを絡ませないで、月の美しさを言いたくなる時だってあるだろう? バカな話さ。封建制度が瓦解したり平和が長く続いたりすると、人は愛だの恋だのに限られたアタマのリソースを割くんだろうな。まったくもってくだらない。くだらないだけならまだしも、言葉の意味をじわじわと変えていくんじゃねーよ。迷惑千万だぜ、まったく」

 男の口はずっと動き続ける。窓からの陽の光は彼の口から放出される唾の粒それぞれに一瞬のきらめきを与えている。無言の男は横目でそれを確認しては眉間に皺を寄せる。

「そうさ。束縛って単語もレンアイ脳の奴らばかりの世の中では、好いた相手の自由を奪う事を言うんだろ? バカバカしい。束縛ってのは本来こういう状態を言うんだがな」

 男はそう言って胸を張る。彼が身に纏っているのは拘束衣。両手両腕の自由を奪う衣服を着せられ、折りたたみ式のパイプ椅子に腰と上半身と両足を固定されている。

「あぁ、しかし、愛だの恋だのに忙しいヤツが、好いた相手を自分の所有物のように扱い、その占有欲が暴走すると、相手の行動と心を今のオレのようにがんじがらめにするんだろ? ご愁傷様だぜ。ハハっ。でもいい事もあるかもな。その束縛から解放された時の自由の素晴らしさをこれでもかって位に堪能できるだろうからな」

 話し続ける男の声は無言の男に届いている。しかし、喋り続ける男は無言の男をにらむ訳でなく、それどころか窓の横に無言で立っている白衣の男を見もしない。うつろな目で、首が最も疲れない角度を維持しながら真正面の壁、あるいは床の辺りに目を向けている。首は固定されていない。ギプスや包帯が彼の首に巻かれている訳ではない。

「先生、健康っていったいなんだい? 歩ける事かい? 話せる事かい? ウィルスや細菌が体内に増え過ぎていない状態って事かい? 食える事かい? 平熱って事かい?」

 白衣の男は一言も話さない。窓の外と拘束された男に視線を行き来させるだけだ。先生、と話しかけられた自覚さえないように、窓の向こうの太陽のまぶしさに目を細め、飛ばされる唾が反射させる太陽の恩恵に眉をひそめる。

「人間に対して占有欲を暴走させる人間は歩けるし話せるし食えるし平熱だ。しかし、さあて、健康なんですかね。ハハっ。そうか。健康かどうかは知らないが、今のオレよりは恵まれてる。歩けるんだもんな。動けるんだもんな。ハハっ。その自由を使って、占有の末に相手を壊しちまうとしてもな。ハハっ。自由で可哀そうな魂が二つ出来上がりだ。動ける歩ける自由はあっても、健康はどこかへ行っちまった。そんな話、いくらでもあるんだろ、先生? 自由で健康で幸福ってのは世に溢れてんのかい? それともそれは幻想なのかい?」


 白衣の男は肘を曲げ、腕時計をチラリと見る。そして、小さくため息を漏らし、拘束された男に近づいていく。無言のまま、手に持っていた白い布切れを広げ細く伸ばし、男の後ろに立ってその布で猿ぐつわを施す。


 白衣の男は拘束衣の男の後ろ頭に結んだ布の締結具合を二度ほど確かめて、一言も話さないままにドアを開け、部屋を出ていく。

 入れ替わりで入ってきた三人の男が拘束衣の男の束縛を解き、その身体をベッドに寝かせるその様を見ようともしないまま、彼はその部屋を後にする。

 されるがままの拘束衣の男の顛末を背中で感じようとするそぶりも白衣の男にはない。


 ――


「はーーー」

 白衣の男は椅子に深く腰をかけ、長い息を吐いた。きぃ、と五脚の事務椅子の背もたれと座面を繋ぐ部分が音を立てる。男は上半身のその重みを背もたれに全て預けて天井を見上げる。

「今日もお疲れ様です、先生」

 声を掛けたのは一人の看護師。事務机が一つだけの三方が本棚に囲まれた部屋には先生と呼ばれた白衣の男と、その看護師がいるだけだ。

「なぁ、アレを看続けるのは果たして俺たちの仕事なのかね。アレを観察し続ける事は医療の範疇なんだろうかね」

 白衣の男は看護師に向かってそう言った。

「んー。どうなんでしょうね。世界に百人程度と言われるあのギフテッドは、医療機関に預けられるケースも少なくないようです。研究機関に預けられる事も多いようですが」

 看護師は立ったまま、カルテを挟んだバインダーを片手で胸の前に据えて、男に応える。

「ギフテッド、ギフテッド……、ねえ……。アレらをギフテッド、神から与えられた者と称するのはまあまあ哀しいよな。彼らが与えられた者なんじゃない。我々が奪われた者なのにな」

「ですが、人類存続の為には彼らに残された神の恩恵を調べて、我々が奪われたものを取り戻すその手がかりを手に入れるしかないですから」

「その大義名分は分かるさ。でも、我々が取り戻せないとなった場合、人類はアレらの遺伝子に支配されるんだぜ?納得できるか?」

「まぁ、まだまだ世界には優秀なストックがありますから、今すぐに彼らに頼らねばならない訳じゃないです」

「しかし、神の意志、神の御業なのだとしたら、この全世界で同時に起こった不妊精子症の蔓延は人類滅ぶべしと審判されたとしか思えないがね」

「えーっと……。どうお返ししたらいいのか分かりかねます」

「アレは今も世界が恋愛に満ちていると思い込んでる。『月が綺麗ですね』が愛の囁きだとか、束縛イコール歪んだ愛、占有欲を表す言葉だとかブツブツと言っていたよ。あの発想というか妄執にも似た観念は精巣にある健康な精子の為せる業か? 無力な精子しか持たないオレ達はもう、オスのオスたる自信の根幹を失ってしまって、恋愛というモードに入る事がそもそも高いハードルの向こうなのにな」

 白衣の男は深いため息をつく。


「先生は現在彼のデータ収集に注力されています。彼に与える情報を制限する中で、彼の内から湧き上がってくる言葉を元に、心理学的アプローチを行っておられますが、世界では様々なアプローチを以ってこの問題に向き合っています。人類は論理的思考と分業と試行錯誤という武器を用いて、いくつもの問題を乗り越えてきました。大丈夫です。人類は必ず救われます」

 看護師は熱を込めて言う。

「しかしなぁ。うちも結局精子バンクに頼ったんだが。愛とは何かって疑問に一つの回答が出た気がしてるんだ」

「と、言いますと?」

「人類は愛を理性的なモノと定義したがった。そう定義しようとしてきた訳だが、愛ってのはとどのつまり、野生の本能と野生の衝動由来のものなのさ。情はあるし、幼い子たちはカワイイものさ。でも、それを自然な愛と呼ぶには努力が必要だ」

「はぁ……」

「社会運営のシステムとして、次世代を育む必要がある。そして、今のオレ達は優秀な先人のストックと科学技術に頼るしかない。野生から離れれば離れるほどに、愛が形骸化していく気がするんだ」

 遠い目をして、白衣の男は言う。


「これも、ビターエンドって言うんですかね」

 看護師はポツリと言った。

「ビターエンド?」

 白衣の男は聞き返す。

「ハッピーエンドでもバッドエンドでもない結末を言うらしいですよ。映画や小説なんかで、大目標は達したけど半端ない犠牲が伴ってしまったエンディングなんかを言うらしいです」

「よしてくれ。映画や小説には結末があって当然だが、俺のエンディングは俺の死だし、この不妊精子症の蔓延のエンディングは俺か他の研究者による克服だ」

「でも、最悪の最悪の最悪のルートしか我々に残されていないとしても、世界に散らばる100人のサンプルの精子が人類を存続させるんですから、……、そうですね、今は【ビターエンド未満】といったところでしょうか」

「縁起でもねえ」

 白衣の男は小さくポツリと漏らした。


 事務机に置かれたPCのモニターには【進捗なし】を意味するいくつかの言語が浮かんでは消えていく。


 インターネットの細い光の線で繋がる彼ら研究者たちはため息さえも同期している。


―― 終わり ――

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