惑星

 正面にネオンライトの看板のある狭い入り口の階段を降りると、大きな空間が広がっている。出会ったばかりの、友人でも恋人でもない人間とここに来て僕たちはただ時間を潰そうとしていた。場内には重低音の効いたダンス・ミュージックが流れ、僕たちの聴覚を容赦無く潰しに来る。ここで長時間話していたら間違いなく翌日は喉が枯れてしまうだろう。

 クラブでは今日イベントが行われているらしく、場内の客の多くが、スウェットのズボンを身につけていた。それがドレスコードなのだ。そしてその下には、下着はつけていないはずだった。

 僕たちはなんとなく寄っただけだったので、もちろんそんな恰好はしていなかったし、だから入場するのに余計な料金がかかるはずだった。しかし僕には切り札がある。

「太陽の知り合いなんですけど」

 受付にそう声をかけると、「本日ご入場のご予約はされていますか」と聞き返された。

「してないんですけど……あの、太陽を呼べたら呼んでもらえませんか」

 スタッフは露骨に面倒臭そうな顔をしながら場内に一度引っ込んでいった。二人いたスタッフのもう一人が、入場客の身分証を確認し手の甲に消えないスタンプを捺している。

 しばらくすると、スタッフが戻ってきた。そのスタッフの後ろに、隠れきれない人影が見える。

まどい!」

 小麦色に焼けた上半身裸の男が、僕にそう声をかける。後ろにいた今日の連れが、驚いているのが気配で分かった。

「久しぶりだな、今日は来てくれてありがとう。ま、入れよ」

 太陽は僕の肩に手をかけて、僕と後ろの彼を場内へと招き入れる。そんな僕たちに後ろから声がかかった。

「スタンプだけは捺してもらっていいですか?」


「すげぇな、お前、あの太陽さんと知り合いなの? どうやって知り合ったの?」

 口角に唾液を溜め少し興奮気味に話す彼の顔には、『なんでお前が』の文字が露骨に浮かび上がっていた。僕は、彼に事情を説明するべきか迷った。

 そもそも春川太陽とは、インカレのLGBTサークルを通して知り合った。当時はまだLGBTという呼び方はそれほど一般的ではなく、セクシャル・マイノリティと呼んでいたかと思う。

 新宿の古風な純喫茶での新入部員の顔合わせの時から、太陽は普通の人とは全く違う存在感を放っていた。どこかエキゾチックなにおいのする顔立ちに、短く切りそろえられた黒く柔らかな髪、そして一目で分かるほどに均整の取れた鍛えられた肉体。聞けば、高校では柔道をしていたという。彼は、一目見ただけでこちらが身構えてしまうほどに、何か明らかに僕たちとは雰囲気をまとっていた。

 しかし、新入生がそれぞれの身の上話をする間中、彼はその整った顔にさまざまな表情をころころと浮かべて、喜怒哀楽をこれでもかと表現していた。皆、最初は彼の存在感に気圧されていたけれど、彼が極めてフランクで飾らない人間だと分かると、それぞれ彼に話しかけて打ち解けていった。

「惑って、珍しい名前だな」

 太陽は僕にそう言う。僕から名前を聞いた人はだいたいがそう言うのだった。「戸惑うの惑うで、惑です」。自己紹介のこの決まり文句がよくないのかもしれない。

 本当だよね、変だよね――いつものようにそう答えようとした僕に、太陽は少し紅潮した顔でこう言ったのだった。

「なんか、めっちゃカッコいいな」

 そんなことを言われるのは初めてだった。だから僕はどう返事をすれば良いのか見失ってしまって、とりあえず、

「太陽って名前も、相当カッコいいと思うけど」

 俯きながらそう答えた。しかしそう言いながら、僕は自分が『太陽』なんて名前をつけられなくて良かったと、心底思っていたのだ。そんな眩しくて目が潰れそうな名前をつけられたら、僕は生き方の指針を見失ってしまうだろう。僕には、戸惑うの惑がちょうどいい、そう思っていた。太陽はそんな僕の気持ちに全く気付いていないのか、

「そうだろ、俺気に入ってるんだ、この名前」

 そうにこにこと答える。彼はその名前に相応しく、とても眩しかった。


 ステージ上のライトが輝き始め、ダンスタイムの開始を告げていた。ぞろぞろと半裸の男たちがステージ上に並び、一様にゆらゆらとどこか卑猥に感じられる動きで踊り出す。その動きがなんだか滑稽に見えてしまうのは、僕が太陽の知り合いだからなのだろうなと、周りの客の興奮でギラついた眼差しを見ていると思う。

 ――僕は二丁目を、ディズニーランドとそう変わらないものだと思っている。

 いっときのエンターテイメントで、日常を少しだけ忘れられる場所。居心地の良い、演出された非現実の空間。それだけだった。だからそこに太陽がいるのは、実のところ僕にはすごくすわりの悪いことだった。だって、ディズニーランドですれ違うキャストが知り合いだったら、なんだか興を削がれてしまうだろう?

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