極夜

数田朗

惑星

 目の前に紙の束がある。紙には文字が印刷されている。僕は赤いボールペンで一字一字を指しながら、その文字列をなぞっていく。

 紙に印刷されているのは気鋭の新人作家のミステリ小説だったが、僕はそれを読むというよりはている。文字に書かれた情報を正確に誤謬なくスキャンして、脳内に再生する。登場人物の動き。誰が今立っているか、誰が今座っているか、誰と誰が隣り合っているのか。映画監督のように全てを把握しなければならない。僕はノートに動きを書き込みながら状況を点検する。ミステリ小説は、純文学よりも緊張する。ミステリ小説の熱心な読者には、目を皿のようにして一文一文から伏線を探る人がいる。しかし僕は、彼らのように興奮の熱に浮かされてこの小説を読む訳にはいかなかった。

 感情移入をしないで読むことは、この仕事の鉄則だ。

 最初の殺人が起き全員が食堂に集合したところで、ぴぴぴ、ぴぴぴ、とスマートフォンが音を立てた。いつの間にか休憩の時間になっていた。原稿の上に小さな亀の文鎮を置くと、コーヒーを煎れに台所へと向かった。

 僕は、フリーランスで校閲の仕事をしている。大学を卒業してからしばらくは出版社の校閲部に所属していたが、数年前に独立した。当初は仕事があるか不安だったが、出版不況の割に増え続ける刊行点数という奇妙な状況と出版社にいたときのコネクションが味方し、ありがたいことにご飯を食べることができている。

 古いコーヒーメーカーが音を立てながら黒い液体をだらだら垂らしていくのを横目に見て、スマートフォンのロックを解除しピンク色のマッチングアプリを開いた。新着なし。メッセージは何も届いていないようだ。僕は『今日のマッチ』の項目をタップして、次々現れるの写真を捌いていく。

 男たちが左右にスワイプされて、一瞬で僕の目の前からいなくなる。ほとんどが右――つまり興味なし、だった。いつもこの作業をしていると、まるで漁港で新鮮な魚だけを選別する工程に似ていると思う。自分の培った直感に基づいて、魚たちのどんな腐敗の兆候も見逃さない。写真が風景だけ――腐敗。どう見ても性行為だけが目的――腐敗。そんなことを繰り返し、『今日のマッチングは終了しました』、そう表示され業務が完了するまで、男たちを僕はひたすら選別する。

 僕は、ゲイだ。

 この業界に所属する自覚は、極端に早い方と遅い方に分かれるような気がしているが、中学で自覚をした僕はそれでも遅い方だと言う人もいるかもしれない。クラスメイトたちが意中の女子について話をして盛り上がるのに参加しているとき、普段真面目な同級生が女子について話しているだけで興奮してしまったのかズボンにふくらみを作ってしまい、恥ずかしそうにそのポジションを直していた。彼は知的だが運動もでき、体格がよく人の良さそうな顔をしていた。しかし生真面目すぎる性格が災いしてか、女子からの人気はいまいちだった。僕はそんな彼のふくらみを見たとき、不思議な感覚が自分の中に萌すのを感じた。僕は、彼のふくらんだ股間から目を離せなくなってしまった。僕は口先だけで適当に話を合わせる。そうしながらその堅物な同級生の中学生にしてはずいぶん大きく思えるふくらみをなんとか視界の端に留めようと必死になっていた。

 家に帰宅しても尚、彼のふくらみが網膜に焦げ付いたように離れなかった。

 そして僕は、彼で行為に及んだ。それはとてもスムーズに行われた。まるで当然の流れのように。そしてそれはあまりに気持ちが良かった。僕は薬物中毒の患者のように、彼で行為に耽ることに溺れた。

 彼で行為におよぶたびに、毎回自分になぜと問いかけた。なぜ僕はこんなことをしているんだろう。なぜこんな間違ったことをしているんだろう。ついこの間まではそうではなかったのに、と思った。しかし、それは間違っているはずなのに、とてもしっくり来た。僕の心のいびつな形がぴったりとはまる穴を見つけたような奇妙な爽快感がそこにあった。今までの僕は不思議と何かに納得していなかったのだと思う。それと比べてしまえば、この行為の方が、どんなにいるにせよ、よほど正解に近いのだという感覚があった。

 コーヒーができあがったので、僕はマグカップを持ってデスクに戻った。仕事机で休憩するのは休んだ気がしないので状況を改善したいと思っているのだが、今この家で一番座り心地が良いのはこのゲーミングチェアなので仕方がない。

 結局僕は、最終的に自分がゲイであることを受け入れた。なぜならそれを訂正するには、まるごと他の全てを書き直す必要が生じることが分かったからだ。それを直す労力を考えたら、ありのままを受け入れてしまう方が良い。それは、出版できなくなるほどの致命的なミスではないのだから。

 ぴろん。

 音を立てて、画面に『おめでとう! マッチングしました!』と表示される。

 マッチングした相手は、初恋の彼にひどく似ていた。


 その相手との待ち合わせ当日。新宿アルタの下で待っていると、彼は少し遅れてやってきた。

 彼は遅れてきたことを詫びるでもなく、少し会話を交わすと当然のように僕に背中を向けてずいずい歩き出してしまった。僕は失敗だったなと思う。彼は僕の初恋の人にやはりそっくりだった。だけれども彼のその振る舞いが、僕の中の初恋の人の印象とあまりに異なっていて余計に気を滅入らせていた。その後もずっとその連続だった。あの人はこんな風に挑発的に笑ったりしないし、自分の知識を得意げにひけらかすこともしないし、性的にあけっぴろげでもない。きっとあのお洒落な店で会おうなんてことも言わないだろう。僕は初恋の彼のそういう素朴さに惹かれていたのだと気付く。

 連れていかれたレストランで、メニューの誤植というか、表記のゆらぎ(『ガスパッチョ』と『ガスパチョ』の表記が混在していた)を見つけて赤を入れたい気持ちになっていると、その人がそんな僕の心の葛藤には気づかずに爽やかな笑顔で行った。

「この後、二丁目行こうよ」

 僕はもう完全にその人に興味がなく、しかし見た目だけがあまりに好みでその人を切り捨てられなくて、口から何か言葉が発されるたびに幻滅していた。だけど、やっぱりもう少し、どうせ今日だけの関係なのだからそばにいても良いかと思えた。もう少し彼をこの目の中に留めておきたい。もう会うこともないだろう、初恋の人に似た彼を。

 店を出て、二丁目に向かい、駅へ流れる人と反対に歩きながら、明日目が覚めたらこの無駄な時間をきっと後悔するんだろう、そう思った。

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