名前を呼ぶ者
田舎に住む祖母が亡くなったという知らせを受けたのは、会社を辞めた翌週のことだった。
しばらく家を離れていたこともあり、久しぶりに帰省して、通夜と葬儀を済ませた。
遺品の整理をしていたら、仏間の奥の箪笥から、小さな木箱が出てきた。
赤黒く変色した木で作られていて、和紙で封をされた上から、古い麻縄がぐるぐると巻かれていた。
「それ、絶対に開けちゃダメよ」
手伝いに来ていた近所のおばさんが、目を見開いてそう言った。
聞けば、このあたりには昔から「名前を呼ぶ者」というものがいるという。
夜、外から自分の名を呼ぶ声が聞こえたら、決して返事をしてはいけない。
返事をした者は、夢の中で“あちら”と繋がり、やがて行方がわからなくなるのだと。
祖母はその「声」を封じるため、代々伝わるやり方で木箱に込め、封印していたのだという。
「箱の中には誰もいない。ただ、そこに“誰か”が入っているだけ」と。
その夜、客間に一人で眠っていると、不意に耳元で音がした。
「……タカシ……」
亡くなった祖母の声だった。
心臓が跳ねる。祖母は確かに“タカシ”と呼んだ。
だが、俺の名前はユウスケだ。
「……タカシ……いるんでしょ……」
背筋が凍る。
声は、障子の向こう側から聞こえていた。
返事をしてはいけない、と思いながらも、喉の奥から言葉がこぼれそうになる。
目を閉じて、耳を塞いで、朝が来るのをひたすら待った。
翌日、声のことを誰にも話せずにいたが、叔父がぽつりと言った。
「そういや昔、この家で亡くなった子がいたな。
母さん(祖母)の兄貴の子で、確か名前が……タカシだったか」
胸がざわめいた。あの声は、俺ではなく“誰か”を呼んでいたのか?
それから数日、何事もなく過ぎた。
だが、東京に戻ってから、ふと気づいた。
部屋のインターホン履歴に、誰かが毎晩来ている形跡がある。
モニターに映るのは、いつも同じ――長い髪で顔の見えない女の姿。
最初は無視していた。
でも、ある晩、彼女がカメラに向かって、はっきりと口を動かすのが見えた。
「ユウスケ……ユウスケ……いるんでしょ……」
名指しで呼ばれていた。
あの時、俺は返事をしていない。なのに、なぜ名前を知っている?
怖くなって、あの箱を開けたくなった。
でも思いとどまった。開けてはいけない気がした。
夜が来るたび、彼女は来る。
声はもう耳元にまで届くようになっていた。
「ユウスケ……タカシは……もういないから……」
――その瞬間、理解した。
あれは、タカシを探していたんじゃない。
タカシは“前”の名前だった。
今は俺を探している。呼び名が変わっただけだ。
あの箱に封じられていたのは、名前に寄ってくる“何か”だった。
そして、祖母がずっと守っていたのは――
「俺」だった。
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