影踏みの夜
ふもとの町に戻ってきたのは十年ぶりだった。
大学進学を機に都会に出て以来、一度も帰っていなかったのに、なぜか無性にこの場所が懐かしくなった。
けれど、帰ってみて違和感を覚えた。
山が、近いのだ。
昔はあんなに遠くに見えていたはずの山が、今は窓の向こうにのしかかるように迫っている。
しかも、その山道には不思議な立て札が並んでいた。
「この道を、夜にひとりで歩かぬこと」
「影を踏まれたら、ふり返ってはいけない」
「ヤマノケに名を知られてはならぬ」
古い、木製の看板。誰が立てたのかわからないが、どれも意味ありげで気味が悪い。
地元に残っていた幼なじみに聞いてみると、あっさり答えが返ってきた。
「お前、ヤマノケの話知らんのか?」
ヤマノケ――それはこの地域に伝わる“影を食うもの”だった。
山に入った人間のあとを、遠くから、静かに追ってくる。
見た人間はいない。なぜなら、ふり返った瞬間、消されるからだ。
それだけではない。
“ヤマノケに名前を知られると、代わりを連れてこなければならない”。
だから、みんな口を閉ざす。自分が生き残るために、名前を伏せて、誰かを“紹介”してしまう。
「なんかさ、お前のこと、最近話題になってるんだよな。誰が広めてるのかわかんないけど」
俺の名前が、誰かの口から漏れた?
それはつまり、“ヤマノケに教えられた”ということだ。
その夜から、妙なことが始まった。
部屋の外から、足音が聞こえる。
誰かが、静かに、ゆっくりと、家の周りを回っている。
覗いても何もいない。でも、足音だけが続いている。
ある夜、畳の部屋に影が現れた。
月明かりに照らされた影は、細く長く、不自然に折れ曲がっていた。
それは俺の影ではなかった。
俺の影は、じっとしていたのに、それは、すうっと歩いて動いていた。
「……お前、誰の名を言った?」
影が、問いかけてきた。
俺は口を開けなかった。何も言っていない、誰にも教えていない。
けれど、影はにじり寄ってきて、足元を踏みつけた。
「名を知られたな。返せ」
その時、スマホが震えた。
メッセージがひとつ。送り主は、あの幼なじみ。
《ごめん。お前のこと、話してしまった》
目の前で、影が膨らむ。
俺は思わず叫んだ。
「待って!俺の名前は違う!“タカハシ”だ!」
それは――高校の時の別のクラスメイトの名前だった。
なぜその名前が出たのか、自分でもわからなかった。
影はしばらくじっとしていたが、やがて動きを止めた。
そして、畳に溶けるようにして消えた。
翌朝、その“タカハシ”が山で行方不明になったと、ニュースが報じていた。
俺は今も、生きている。
けれど、思うのだ。
次に誰かに名前を聞かれたら、また“返さなければ”ならないのではないか――と。
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