三丁目の幽り(かすり)

通勤で使っている地下鉄の話だ。

朝の時間帯はいつも混んでいるのに、月曜のある日、車両がやけに空いていた。

時間もいつも通りだったし、遅延情報もなかった。


何より変だったのは、降りるはずの「七ノ森駅」で、アナウンスがなかったことだ。

扉は開いたが、車内の誰も動かない。まるで、そこは「通過駅」のように扱われていた。


俺はとっさに降りた。

だが、そこは見慣れた七ノ森駅ではなかった。

照明がやけに白くて、空気が乾いていて、床のタイルも微妙に違う。


改札もあるし、路線図もある。でも、どこかおかしい。

駅名表示板が「七ノ森」ではなく「三丁目」と書かれていた。

そんな駅、なかったはずだ。


外に出てみると、街並みは普通だった。コンビニもあれば、小さな喫茶店もある。

けれど、人が歩いていない。

どの店にも「準備中」の札が出ていて、中は薄暗い。


仕方なく一軒の喫茶店の扉を押した。

カラン、と鈴が鳴ると、すぐに年配の女性が出てきた。

「あら、今日はまた早かったのね」

そう言われて、言葉が詰まった。

俺はここに来るのは初めてだ。


「よかったら、いつもの席で」


言われるまま奥に座ると、苦味の強いコーヒーが出てきた。

なぜか、懐かしい味がした。


壁際には、他にも何人かの客が座っていた。みな無言で、うつむいている。

その中の一人の顔が、どこかで見た気がした。

隣の部屋に住んでいた男に、よく似ている。

でも、彼は二年前に引っ越した。いや、引っ越したと聞かされた。


店を出て駅に戻ると、なぜか駅名が「三丁目」ではなくなっていた。

「五丁目」に変わっていた。

電車が来る気配はなかった。

駅員もいない。


ふと背後で、「また迷っちゃったの?」という声がした。

さっきの喫茶店の女性が立っていた。

「こっちの世界に足を踏み入れた人って、みんな最初は迷うのよ」


俺は何かを言い返そうとしたが、言葉にならなかった。


それから、気づけば元の世界に戻っていた。

ただ、何かが微妙に違っている。


隣の住人の名前が思い出せない。

職場の同僚の席が一つ、空いている気がする。

いつも乗る地下鉄で、「三丁目」という駅の名前を、誰もが知らないふりをしている。


駅の掲示板にはないが、電車の窓から、たまに見える。

薄暗いホームに、座り込んでいる人影が、こちらに手を振っている。


あの喫茶店のコーヒーの味が、まだ、舌に残っている。

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