反芻奇譚

昏野

反芻奇譚




     反芻奇譚

     

     

     

 土の上に気味の悪いかたまりが落ちている。俺のゲロだ。頭を上げたいがどうしても力が入らない。涎が唇から垂れてゲロに落ちた。それをぼんやり見ていたらまた胃袋が衝き上げてきて、苦酸っぱい胃液に喉を焼かれた。幾度目か、反吐が滴った。朝は何も食べなかったから、これはゆうべ喰ったものの残骸ということになる。随分消化が遅い。

 「ぶっ殺せよ。さっさと」

 風行が俺の後頭部に向かって言う。

 「頭を割ってやればいい。鉄パイプで」

 「鉄パイプなんかないだろ」

 俺はやっと言い返す。視界が涙で滲んでいる。

 「何だっていいんだって。そのへんの石でも。顔面に思い切りさあ」

 「頭じゃないのか」

 「頭がいいなら頭にすれば? ……でもさ、あの面が潰れたらちょっとは楽になるんじゃねえか? 大っ嫌いなあの顔が無くなれば」

 少し先に、ゴジアオイの群れが揺れていた。そこに紛れるように俺の母親が突っ立って、こちらを見ている。

 駅までもう少しという処で嘔き気に耐えられなくなって、改装中のスーパーの横にあった空き地に駆け込み、嘔吐した。

 背中も首も汗でべたべたで不快だった。黒いスーツの中は燃えるように暑い。

 「粉々になるまで叩き潰したらいい。骨まで。簡単だよ」

 人であったこともわからないほどぐちゃぐちゃに潰れた母親を思い浮かべて、それを見ている自分を思い浮かべて、俺はまた嘔いた。もうあまり出るものはない。汗がだらだらと流れて、目に入って来て沁みる。

 風行は俺の耳許に顔を近づけ、囁き続ける。

 「殺せばいいんだよ、あんな奴。簡単だろ。硬い物で一撃。な? 血とかいっぱい飛ぶだろうけど、掃除は手伝ってやるから問題ない」




 架空の死体の始末より、目の前のゲロだった。

 腕時計を見た。二時間以上早めに出てきたので、充分時間はある。俺はゲロにかける為の土を掘れるような、板切れか何かないか、辺りを見回した。

 「ほっとけよ。雑草だらけだからバレねえよ」

 「バレるだろ、ここ、工事する人たちが通ったりするだろうし……」

 「バレなきゃいいって考え方はさ、昔から俺たち同じだよな」

 陽射しがこれでもかと突き刺さってくる。頭が重たい。クリーニングから返って来たばかりの喪服が既に皺だらけだ。ゴジアオイの花弁は白に深紅の斑点。

 「もう行こうぜ」

 風行が言う。

 「とっとと電車に乗ろう。暑過ぎる」

 とりあえずポケットからティッシュを出して、涎と鼻水を拭いた。それから煙草。銜えて、入れたはずの処にライターがなくて、あちこちのポケットを探る。やっとズボンの右の尻ポケットに見つけて、取り出して火をつける。指が震えていた。

 「悠平?」

 後ろから声がして、風行の声じゃないことに気がついて、首をねじった。

 空き地と道路の境い目に、同い歳くらいの男が立っていた。喪服姿で。

 「何してるんだ?」

 誰だかわからない。

 まったく見憶えがない。

 「嘔いたのか?」

 近づいてくる。

 そちらに身体を向けた。

 顔にも声にもまるで憶えがない。俺より五センチくらい背が高い。眼鏡をかけている。あまり表情がない。ネクタイを緩めて、シャツのボタンをひとつ外している。荷物は持っていなかった。

 「ひどい顔色してる。水買ってこようか?」

 誰だ。

 俺の名前を呼んでいた。

 未だ交流の残っている従兄弟は、三つ下の真人だけだ。去年の葬儀で十年ぶりくらいに顔を合わせた。目の前の男とはもちろんまるで別人だ。幾らなんでも一年でこんなに変わるわけがない。

 「まだ嘔きそう?」

 「どちら様ですか」

 「弓削田静」

 男はすぐに答えた。俺が、自分のことをわかっていないことに何の驚きもない様子だった。

 「ゆげた……?」

 聞き憶えはない。

 「昔、近所に住んでたろう」

 「近所?」

 何を言っているのかわからない。

 そんな知り合いがいた憶えはない。

 それに、何故こいつまで喪服なんだ?

 「とにかく、せめて日影に入った方がいいんじゃないか」

 男は革靴の爪先で、土をほじくってゲロにかけ始めた。

 少し俯いた首の斜め後ろ、白い衿から覗いた肌に、ひきつれた白っぽい傷痕のようなものが見えた。




 ホームの日影にあるベンチに座れた。

 嘔き気は収まっていた。駅のトイレに入って手と顔を洗い、何度もうがいした。男を見てそうすればよかったのだと今更ながら気づいて、ネクタイを緩め、一番上のボタンを外した。

 トイレから出ると、水のペットボトルを渡された。自販機で買ったらしい。自分の分も持っていて、既に開けて飲んでいた。

 目的地までの急行が着くまで、あと十分程あった。

 「弓削田……さんも、その、法要なんですか」

 男は可笑しそうに笑った。

 「同じ寺へ行こうとしてるよ。……隣の家にいた静だよ。まだ思い出せない?」

 「荻窪の家のこと?」

 「そうそう」

 「小学校の途中で引っ越して、そのあとも二回、引っ越しがあって、それからひとり暮らしになって、最初の家のことはあまり憶えていない」

 「そうか」

 ベンチの隣で両脚を投げ出して、弓削田は片手で顔を扇いでいた。

 「同じって、……俺の母親のですか?」

 「そう」

 「意味がわからない」

 「何で、俺が出席するのかってことだよね、一周忌に」

 一周忌ということまで知っている。俺は改めて弓削田の顔をじろじろと見たが、何も思い当たらなかった。

 「去年の暮れにこの駅のそばに引っ越してきて、悠平の住んでるアパートの大家さんに聞いたんだ。おばさんが亡くなったこと」

 「大家に?」

 声が大きくなってしまう。

 「俺の処の大家さんでもあるんだよ、久住さんは」

 弓削田は相変わらず落ち着いた、感情の読めない声で続ける。

 「俺の借りてるアパートは駅の西側にあって、悠平の処からは離れてるんだけど、俺、少し前におまえのこと見かけてさ。声をかけられる距離じゃなかったんだけど、あのアパートの敷地に入ってく処見たんだよ。ここに引っ越してくる時、おまえが借りてるアパートと、今借りてるアパートと、俺かなり迷ったんだ。だからそこも大家が久住さんだって知ってた」

 「大家が、そんな住民の内情を……」

 「話を振ったのは俺だよ。部屋の窓ガラスが一箇所熱割れして、その交換の日時を決めている時、さりげなく言ってみたんだ。久住さんのもうひとつのアパートに、どうも知り合いが住んでいるみたいなんですって。悠平、去年しばらく実家に戻ってたんだろ? 看病の為に。久住さんにしばらく留守にすることをちゃんと報告して。でも、ひと月くらいで戻ってきたから、お母様治られたんですかって訊いたら、いえ亡くなって葬式も済みましたって言ってたって。本当はこんなこと他人に話すべきじゃないのは、久住さんもわかってると思うけど、俺が子どもの頃隣に住んでて歳も同じなんですって言ったから、それならお線香の一本もあげてきたらって教えてくれたんだ」

 「おい。凄ぇ軽く扱われてんなあ。何だ、あのババア。こっちは気遣って連絡してやったのに。幾ら何でも口軽過ぎじゃねえか? あいつも殺しちまえばいい」

 弓削田と反対側に座っている風行が怒りだした。

 「思い出せない」

 片手を振って風行を黙らせて、俺は口を開いた。

 「何も思い出せない。隣に住んでた? 同い歳? 学校も同じだったのか?」

 「悠平、ほとんど学校には来てなかったよな」

 平坦な声だった。

 しかしそれは事実だった。

 「俺何回か迎えに行ったの憶えてるよ。いつもおばさんが出て来て追い払われた」

 「……」

 「おじさんが亡くなった時のことも憶えてる。……あの時も、知ったのは亡くなってだいぶ経ってからだった。確か何週間も経ってから、ホームルームで急に担任が言ったんだ。杉山くんのお父様が亡くなられましたって」

 「……」

 「あの頃は子どもだったから、お線香をあげに行くとかお墓参りに行くとかそういう発想がなかった。親にも話した筈だけど、結局何もしなかったよな。ごめん」

 「なあこいつ何なんだよ? 何が目的? 馴れ馴れしい。気持ち悪い。おまえ本当に何も思い出せないのか?」

 風行が激しく苛立っていて、俺の両手が震えそうになってくる。誤魔化す為に額の汗を手の甲で拭った。

 脳内に父親の大声が立て続けに蘇った。殴られた時の衝撃と痛みも。何も感じなくなっていた心も。長らく忘れていられたと言うのに。少なくとも先程までは、母親の死のことだけで済んでいたのに。

 俺はまた煙草を取り出して銜え、火を点けた。手の震えを懸命に抑え込む。

 しかしまだ一口しか喫っていない処で、乗るべき電車がホームに滑り込んできた。

 

 

 

 お盆は過ぎていたがまだ学生たちは夏休みで、車両は混んでいた。

 弓削田が器用にドアの脇の場処を確保した。俺が座席の横に寄りかかり、弓削田は窓の方を向いて立った。車内はクーラーがかなり強く効いていて、お陰で喪服の内側に籠もっていた熱も少しずつ吸い取られていく。

 「弓削田が、何で俺の母親の一周忌に来るのか、まだ理由を聴いていない」

 俺は文句を言い通しの風行をどうにか遮りながら言った。

 弓削田はこちらを向いて、少しの間俺の表情を窺っていた。

 「隣に住んでたから。おばさんに逢ったことがあるから。悠平の母親だから」

 「でもさっき追い払われたって言ってたよな」

 「そうだな。おばさんの顔を思い出そうとしても、怒ってる処しか浮かばない」

 「血の繋がりもない、そんな人間の法要にどうして行こうとしてる?」

 弓削田は窓の外を見て、しばらく黙っていたが、やがてぼそりと言った。

 「罪悪感かな」

 「はぁあ? 何だこいつ!」

 風行が完全に頭に血を昇らせて怒鳴った。

 「意味がわからない」

 俺の声は逆に感情を失っていた。

 「いや、おばさんがどうとかじゃないんだ。おまえに対する罪悪感ていう意味」

 「だから、意味がわからない」

 「悠平は忘れちまってるみたいだけど、俺、何回かおまえと遊んだことあるんだよ。放課後の校庭とか、公園とか、俺んちとかで。凄え楽しかったよ」

 「……」

 風行が耳許で、殺そう、と囁く。

 「おまえあんまり背高くなかったし、痩せてたし、それなのにめちゃくちゃ運動神経よかったじゃん。足も速くて。サッカーがうまかったから、学校でみんな、杉山早く学校来たらいいのになあってよく話してた」

 「嘘吐いてる。そんな記憶ねえよな? おまえサッカーとかやったことあんの?」

 風行が混乱している。

 俺もだ。

 そんな記憶、どこにもない。

 「体育で一〇〇メートル走計った日、おまえはいなくて、川上がクラスでいちばんだったけど、サッカーした時に悠平、余裕であいつのこと抜いてただろ。自陣から敵陣のゴール前まで凄い速さでドリブルしながらさ……。あれ、まじでかっこよかった。鳥肌立ったよ。今でもはっきり憶えてる」

 サッカー?

 こいつと?

 他のクラスメイトたちと?

 「……まじで? まじで、まだ思い出さない?」

 俺は混乱したまま顎を引いて肯いた。

 「まじかー。……おじさんが亡くなったあと、結局一度も学校に来ないまま引っ越しちまったよな。隣だったのに全然気づかなくて、ある時あれって思って、慌てて担任に訊いたんだ。そしたら、転校の手続きもちゃんとしないままいきなりいなくなっちゃったって聴いた」

 「……」

 「小学生の間はただ逢えなくなったことが悲しい、淋しいってだけだったけど、中学んなって、高校んなって、少しずつ世の中のことがわかってくるにつれて、悠平はもしかしたらかなり酷い目に遭ってたんじゃないかって思うようになった。いや、これは俺が勝手に思ってるだけだよ。勝手に想像してるだけ」

 「……」

 「すぐそばにいたのに、何もしなかった。と言うか、知ろうとしなかった。知る努力をしなかった。そういう罪悪感」

 「……」

 「悠平のこと見かけた時、遠かったし、あれからもう十八年? くらい経ってるのに、すぐわかったよ。背、伸びたよな。相変わらず痩せてるけど」

 「……」

 「サッカー、まだやってる?」

 突然、稲妻のように脳裏にサッカーボールの映像が閃いた。

 どこだ? どこの映像? ……実家だ。最初の実家。荻窪の。

 俺は呼吸を痞えさせて、咳込んだ。

 「大丈夫か?」

 返事できなかった。

 あれは、そうだ、いつも酒臭かった父親が、ある日何故か買ってきてくれた。

 何で……テレビだ……テレビで、サッカーの試合をやっていたんだ。それを、観ていた。新聞で一所懸命放送される時間やチャンネルを調べて、両親がテレビを観ていない時だったら観れた。二人の機嫌がいい時は、試合の最初から最後まで観ていても怒られなかった。殴られなかった。

 父親が買ってきてくれたのは子ども用のサイズで、学校の体育で使ったものとは少し違っていた。でもゴムボールのようなしょぼいものでは決してなかった。俺はうれしくて、うれしくて……。

 実家の裏側に庭とも言えない隙き間があって、その家と壁の間でリフティングの練習をした。

 どうして、どうして忘れていたんだろう。

 あんなに必死に、あんなに没頭して、現実の何もかもを忘れ、練習していたのに。

 ……ドリブル。

 母親は俺が外出することを許さなかった。こっそり遊びに出かけると、帰って来てから物差しで打たれて、夕飯を食べさせてもらえなかった。

 だから本当にたまにしか、ドリブルの練習はできなかった。

 公園。

 そうだ、思い出した。

 確かに公園でドリブルの練習をした。母親の機嫌が特別いい時だけ。

 それから……、そうだ。こいつの言うとおりだ。

 誘われて放課後の校庭で、ちゃんとしたフィールドで、サッカーをした。クラスメイトたちと。喋ったことがないやつもいっぱいいたのに、一所懸命やったら、褒めてもらえた。

 「嘘だろ? なあ嘘だって。勘違いだって。おまえ今までそんなこと一回も思い出さなかったじゃねえか。こいつに騙されてんだよ。そんないいことがあった訳ねえよ」

 記憶は飛び飛びで、映像はあちこち掠れてよく見えなくて、クラスメイトひとりひとりの顔もきちんと思い出せない。でも、足がボールを触った感触は、たった今そうしているくらいはっきりと思い出した。

 俺は思わず黒いズボンと革靴を見下ろした。

 あのサッカーボールはどうしたんだっけ?

 母親が、父親が死ぬ少し前から入り浸っていた男に言われるまま引っ越した時、あの時、そうだ、荷物になるからと言って、母親に取り上げられた……。

 「思い出した」

 俺は弓削田の顔を見て言った。

 「……しずくんだ」

 弓削田がほっとしたように笑った。

 「おっせーよ。悠平がもうずっと不審者を見る目つきだったからさあ。どうしようかと思った」

 俺もつられて少し口角を上げる。

 すかさず風行が背後から怒鳴った。

 「おい! 油断するな莫迦! 小学校時代を知ってる奴なんだろ? おまえが憶えていないことも憶えている。もしかしたら父親のこともわかってるかもしれねえぞ。にやついてる場合じゃねえ」

 そのとおりだ。

 

 

 

 「弓削田がそんなこと気にする必要ない。知らなくて当然だ、隠してたんだから。今日の一周忌は、俺しか出席しないんだ。母親が死ぬ前からもうずっと親戚との交流は無くなってて、去年の葬儀も、母方の叔母と叔父と従兄弟が来てくれただけなんだ。友人とかいる人じゃなかったし」

 別の路線に乗り換えていた。これに二十分程乗っていれば、寺の最寄り駅に着く。

 今度は座ることができた。

 それもいちばん角の席だったので、さっき程声量を気にせずに済んだ。

 「坊さんのお経を聞いて、墓の掃除をするだけだ。来ても何もない」

 「偉いよな、悠平は。看病して、葬式して、一周忌もやって。俺は何もしなかったよ」

 弓削田は少し開いた両脚の上に両肘を乗せて、両手の指を組んだり離したりしていた。

 「両親が死んだ後から、ずっと逃げ続けてる。葬式は姉がやったのかもしれない。それすら知らない。逃げて、スマホの番号を変えた。手紙が届いても読まないで燃やした。引っ越しして、郵便物の転送届けを出さなかった。もう一度引っ越して、ようやくここ一年くらいはもう誰からも連絡がない。まだそれでも、もっと逃げないとと思ってる」

 風行が困惑したように俺の顔を見た。

 俺も少しの間言葉が出なかった。

 「家族とうまくいってなかったのか?」

 「そうだな。間違えて生んだみたいだ。姉だけでよかったらしい」

 「……俺、あんまり思い出せないけど、しずくんち行ったんだよな。自分の家と何もかもが違ってて圧倒されたことがあった。あれ、しずくんちだよな? どの部屋も綺麗で、花とか飾ってあって、しずくんは自分の部屋を持ってて、すごくおいしいおやつをおばさんが持ってきてくれて……」

 弓削田は小さく笑った。下を見たまま。

 「外面を何よりも大切にする人たちだった。悠平にすら見栄張ってたんだ。その分、他人から見えない処では幾らでも残忍になれる人たちだったよ」

 「……」

 「避妊に失敗して生まれた人間だから、つまり本来はいない筈の存在だから、何をしてもいいと思ってたんだろうな」

 話している間、幾度か停車して、ドアが開いて、人が複数出入りした筈だ。目の前に立つ人間が入れ替わった筈だ。しかしそれらは、まるで何か分厚い不透明な膜の向こう側のできごとのようだった。

 ここには弓削田と俺と風行しかいなかった。

 「いつ頃亡くなったんだ?」

 「就職した年。うちも夏だった。泥酔して、二人して家の階段から転げ落ちた」

 俺は息を飲んだ。

 父親の死に方と同じだったからだ。

 「大きな音がしたんだろうけど、俺はイヤフォンして音楽を聴いてた。深夜だった。トイレに行くまで気がつかなかったんだ。姉は結婚してとっくに家を出てた」

 「……」

 「二人とも、息を引き取るまで一時間から二時間はかかったでしょうって警察は言ってた。肋骨とか骨盤とか背骨とか折ってたから身動きできなかったけど、頭蓋骨は割れてなくて、大きな血管は損傷してなかったから一度に大量に失血したわけじゃなかったって。きっと、助けてくれって何度も声をあげてた筈だって。猛烈な痛みの中で。でも俺は寝つけなくて爆音で音楽聞いてたから。トイレに行くまで本当に何も気づかなかった」

 「……」

 「て言ったら」

 「……」

 「信じてくれたよ」

 階段の降り口に後ろ向きに立っていた父親の裸の尻と背中を思い出した。風呂上がりはいつもバスタオルすら巻かずに、全裸で家の中をうろうろしていた。片手にワンカップを持っていたが、湯舟の中でも飲んでいたせいで既に顔は真っ赤で、訳のわからないことを怒鳴り散らしていた。喚きたいだけ喚いたら、次は俺を殴ってくる。

 右の足首を後ろから両手で掴み、思い切り持ち上げた。父親は呆気なく前のめりになり、そのまま階段を転げ落ちていった。悲鳴をあげながら。

 階段の下で仰向けに転がって、しばらくの間――どのくらいの時間だったかよくわからない――、苦しそうに唸っていた。醜悪な裸の肉体。その頭の下に血溜まりができて、広がっていった。

 「答えたくなかったら、全然言わなくていいんだけど、おばさんの病気って何だったんだ?」

 「肺炎」

 「おい! 何喋ってんだよ! 何も、何ひとつ話すな!」

 「大変だったろう、看病」

 「特には。おとなしく寝てたよ。食事と、薬を与えてただけ」

 「入院する程重症じゃなかったってことだよな?」

 「俺は病院の入り口までしか行ってないんだ。診察室には入ってないから詳しいことは何も知らない。俺の見た目がみっともないから、外に出したくないって子どもの頃から言われてたんだけど、担当医にも俺の姿を見せたくなかったらしい」

 「みっともない?」

 「ああ。自分にも父親にも似ていなくてみっともないってよく言ってた。でも父親が死ぬ前からいろんな男と付き合ってたし、たぶん、俺が本当は誰の子かわからなかったのが嫌だったんじゃないかな。それとも、父親はわかってたけど、俺の顔を見ると思い出しちまうのが嫌だったのか」

 「……」

 「俺免許も車もないから、タクシーで送り迎えした。病院のそばにあったホームセンターの駐車場に灰皿があるのを見つけて、そこでずっと煙草喫いながら待ってた。終わったって連絡あって、電話でタクシー呼んで迎えに行ったら、安静にして処方された薬を飲めって言われたって。二週間程度で治るって言われたって。だから母の処に寝泊りして、会社に通いながら食事作ったり、洗濯したりしてた。いつもだったら俺への文句か、誰かの悪口を言い続けてるのに、横になったまま咳ばっかりしてて、静かでよかったよ」

 「やめろ! こいつ、本当に子どもの頃の知り合いなのか? 間違いなくしずくんなのか? そうだとしても、例えば今警察官だったらどうする? そうじゃなくても通報する気かもしれないぞ」

 「偉いよ、まじで。俺にはできない。もし親のどっちかが、両方でも、寝込む程の病気になっても俺は放っておいただろうな。病院にも連れて行かない」

 「……、しずくんがそんな目に遭ってたなんて、全然知らなかった」

 「うん、誰にも気づかれなかった。とにかく外面はよかったし、俺も見栄を張ることがいちばん大事だって教育されてたし、近所の人にも担任にも何も言わなかった。痕が残るような怪我は服を着てれば見えない箇所ばかりだった。体育の着替えの時に何か言われたら適当な嘘ついて誤魔化して、……それに、……触られたとか、そういうのは、残らないだろう? 誰の目にも見えない」

 「……」

 「……」

 弓削田の横顔は俯いたままでどんな感情も読み取れなかった。

 「触られた?」

 俺は自分でも聞き取れない程の声しか出せなかった。

 「うん」

 「どっちに?」

 「……、っ、……ぅ、ち……っ」

 弓削田は突然に吃った。片手で側頭部をかきむしった。

 「……父親に?」

 弓削田の頬は血の気を失っていた。下を向いたまま、表情は硬直して眉ひとつ動かない。

 俺は絶句していた。

 足裏から背中まで、無数の節足動物が這い上っていくようだった。

 「……そ……」

 「……」

 「……しずくん。よく」

 「……」

 「よくぞ、生きて……ここまで……」

 弓削田は瞬間こちらを見た。眼光は鋭く一秒の半分くらいの時間だったが、真意を見抜こうとする極めて冷然とした視線だった。

 「……何度か試したんだけどな。できなかった。どうしても恐ろしくなってしまうんだ」

 「わかるよ」

 「本当にわかる?」

 「うん、俺も、屋上とかホームとか、何時間も立ってたことあったよ。でも踏み出せなかった。どうしてもこわくて。……未練なんて何もない筈なのに」

 弓削田は座席に座り直しながら、さりげなく静かに深呼吸した。押し殺すことに慣れた呼吸だった。俺も周りに悟られず気持ちを落ち着けたい時、まったく同じ息の仕方をする。

 「俺は、あった、未練が」

 「本当? 何?」

 「悠平のドリブル」

 「……え?」

 「あれがもう一回見たいって、いつも間際まで行くとよぎったんだ。当時、スマホとかあったらよかったのにな。まあ俺が持たせてもらえたとはとても思えないけど、誰かが録画して、保存しておいてくれたらよかったのに」

 「そ、そんな……? 俺がドリブルして走る処がもう一度見たくて、思い留まったって言うのか?」

 「うん。当時三年生で、サッカーは体育でもやってたし、部活に入ってたやつもいたけど、悠平はほとんど学校に来てなかったのに誰よりも速くて器用で、おまえがボール持ったら、みんな歓声あげてただろう。あのドリブルが始まるんだから。敵チームまで立ち上がって手を叩いてたこともあった」

 俺はどういう表情を浮かべたらいいのかわからなかった。

 風行もどう判断するべきかわからないという表情で口を閉ざしている。

 「……しずくん、たぶん何かの記憶と混ざってるんだよ。テレビで観たプロ選手のプレイか何かと。俺、そんなにうまくなかったよ。うまい筈がない、碌に練習できなかったんだから。外で遊ぶと罰として母親に物差しで手の甲を二十回叩かれて、その日の夕飯喰わせてもらえなかったんだ。だから、公園とか行きたくても行けなかった」

 「……」

 「リフティングは、家の裏の、壁との隙き間でひとりでできた。でもドリブルだのパスだのは、たまにしか、それこそしずくんが誘ってくれた放課後の校庭でしかできなかったんだ。それでそんなにうまい筈ない」

 「違う。悠平は誰よりもサッカーがうまかった。俺は憶えている。あの映像を頼りに俺は二十六歳の今日まで生き延びてきたんだ。だから間違えていない」

 混乱は消えなかったが、俺は弓削田のこの記憶に口出しすることを止めた。

 俺が本当にドリブルがうまかったかどうかはもうどうでもいい。弓削田がその映像を記憶していて、それが彼の命を繋き留めたと言うのなら、真実なんてどうだっていい。

 

  

 

 「当時、しずくんだけが俺のこと誘ってくれてたのに、何も気づけなかった。何もできなかった。さっき、しずくんが言ってたこととまったく同じだけど、本当にごめん。……でももし、何か異常なものを見ていたとしても、その、とても思い至れなかったと思う。俺は自分のことで頭がいっぱいだったから」

 弓削田は俺を見て、悲しそうに笑った。

 「本当にな。他人どころじゃなかった。一秒、一秒、呼吸してるだけで精一杯で……」

 「うん」

 後ろから風行が両手で俺の首を絞め始めた。俺がべつに続けなくてもいい続きを話そうとしているのを、察知したのだ。

 「……病院行ってから十日くらい経った時、全然よくならないって母親がキレて、作ってやった飯を全部畳にひっくり返したんだ。それを片付けてたら、俺の顔に痰を吐きかけてきた。マスクはしてたからじかにはかからなかったけど、すぐ顔洗って、次の日午前中会社休んで一応医者に行った。まあ、結局何ともなかったんだけど……」

 「……」

 「薬は残り四日分だった。よくなっているのか、本当によくなっていないのか、俺にはわからなかった。本来ならその辺りでもう一回病院に連れて行くものなんだろうけど、行かなかった」

 「……」

 「会社でだらだら残業して、それでも帰りたくなくて、あちこち寄り道した。帰ると、咳ばっかりでもう文句も言えなくなってる母親が寝てた。俺、水も置いていかなかったから、渇きと餓えで苦しかっただろうな。……昔俺、外に遊びに行くと飯食わせてもらえなかったって言っただろう。あの時は本当に辛くて……おなかがすいて、すいて、喉も渇いて、渇いて……、トイレの手を洗う処の水をこっそり飲んでた。それでも一晩中空腹で眠れないんだ。それを思い出したら、なんか、もうこいつの為に飯を作る気が起きなくなっちまって」

 「当然だろうな」

 「翌日まる一日、水道水しかやらなかった。トイレは自分の足で行けてたのに、それで一気に弱って布団の中で漏らしてた。それ見たら、……うまくいけばこのまま死ぬのかもしれないと思った」

 「うん」

 「検死解剖ってあるだろ。あれで飯を食わせてないってバレるのはまずいと思った」

 「うん」

 「だからまた翌日から粥とか食わせた。薬も飲ませた。汚れたパジャマやシーツだって替えてやった。わけのわからないプライドだけは高くて、オムツは最後まで拒否してたよ。でも結局トイレ行く途中で失敗してて、その方が余程汚らしかった。『みっともない』って言ったんだ。一回だけ。俺は百万回だって言われてきたのに、信じられないって面してこっちを見上げてさ、笑っちまう処だったよ」

 「……」

 「薬がなくなって、それでもあいつの咳は止まらなかった。でも俺は病院に連れて行かなかった。最低限の食事と水だけ枕許に置いて、会社へ行った。仕事が終わってもすぐには帰らないで、滅多に行かない同僚との飲みに参加したりした。父親が酒乱だったから、俺、酒飲めないんだ。匂いだけで気分悪くなる。ウーロン茶とかジュース飲みながら、時々トイレへ行って嘔いて、また席に戻って、いつまでもだらだら喋ってたよ。終電で帰って部屋を覗くと、まだ生きてる。仕方ないからまた次の日の分の飯と水を用意して、会社へ行って……。何日かくり返して明日は休みか、面倒だなって思ってた日に、やっと死んだ」

 「お疲れ様。大変だったな」

 「死ぬ何時間か前に、足を持ち上げて敷き布団を踵で叩いて、音をたててた。声があまり出せなくなってから、そうやって俺を呼んでたんだけど、もう行かなかった。あいつの死に際の言葉なんて、絶対に聞きたくなかったから」

 「想像したくもねえな」

 「言いやがったな! 馬鹿野郎! 録音でもされてたらどうする? そうでなくても警察にバラされたら」

 「厳しい取り調べがあるだろうなと思ってたのに、想像してた程じゃなかったよ。二回呼び出されたけど、結局ご愁傷さまでしたって言われて終わりだった。唯一交流が残ってた叔母さん、あいつの妹に連絡して、葬儀社に連絡して、警察から遺体が帰ってきたらすぐに焼いて、灰を墓の下に入れた。従兄弟とか、叔母さんや叔父さんと十年以上ぶりに話して、あいつの貯金は俺がもらっていいことになった。遺書はなかった。まだまだ生きる心算だったんだろうけど、その割にびっくりするくらい金は少なかった。あいつが最後に住んでたのは狭い賃貸アパートで、男に囲われてるようなこと言ってたけど、結局そいつとは一度も逢わなかった。電話やラインくらいはしてたのかな。わからない。あいつのスマホ、触るの気持ち悪かったから、警察から返されたら初期化もしないでビニール袋に入れてスマホショップの店員に渡したんだ。どこかに捨ててもよかったけど、それだと万が一、後から気になって捜しに行っちまいそうな気がして、こわかった。遺族のスマホなので処分してくださいってだけ言って急いで店を出た。……アパートの始末が本当に面倒だった。散らかった不潔な部屋で、会社行きながらだったから、掃除だけで四日もかかったよ。ゴミ袋を幾つも幾つも出して、粗大ゴミもたくさん捨てて……。見たくないもんばっか見なけりゃならなかった。毎日毎日、くそ暑くて……」

 「凄えな。ひとりで全部やったんだな。本当に偉いよ」

 「ひとりじゃねえ。俺もいた」

 「そういう諸々や退去費用や葬式代で、あいつが残した金じゃ全然足りなかった。こんなことに、どうして必死に貯めてきた金を使わなきゃならねえんだって、真剣に腹が立ったよ」

 「馬鹿! そんなことまで何で話す? 話して何になる?」

 「自分の部屋に戻れた日には、心底ほっとした。あいつが咳が出るって連絡してきてからずっと、碌に食べれてなくて、碌に眠れてなくて……」

 「眠れてる?」

 「え?」

 「今は眠れてる?」

 「どうかな。まあ、足りてねえよ。よくて数時間だな」

 「……俺も。俺ももう何年も、熟睡できてないんだ。医者に行こうかとも思ったけど、いろいろ訊かれるかと思うと」

 「しずくんは何も悪くないだろ。ご両親が勝手に酔っ払って、勝手に落ちたんだから。気づくのが少し遅れただけで」

 「眺めてたんだ」

 「え?」

 「階段の上に座って、死ぬまでずっと眺めてた」

 電車が目的の駅に着いた。

 

 

 

 太陽が中点に近づいて、温度は先程より確実に上がっていた。雲は見えず、風もほとんどない。

 大通り沿いの道を並んで歩く。

 寺まではだいたい十五分くらいかかる。

 弓削田はポケットから出したハンカチで首すじや額を拭いていた。俺はハンカチやタオルを持っていない。汗をかくことはわかり切っていたのに、準備するのを失念していた。

 彼が持っているハンカチは真っ白で、きちんとアイロンが当てられていた。

 「しずくん、結婚してるのか?」

 「そんなわけないだろう」

 「じゃあそれ、自分でアイロンかけたのか」

 弓削田は俺の顔を見て、それから下を向いて笑った。

 「外面の教育の賜物だよ」

 笑っていいのかわからなかった。

 「ずっと話しているうちに、思い出してきた」

 風行は先程から数歩後ろを歩き、不機嫌にそっぽを向いている。

 「しずくんちで遊んでたこと。俺も楽しかった。あの頃の俺には天国にいるみたいだったよ。どうして忘れてたんだろう」

 「忘れるよな。忘れねえと、とてもやっていけねえよ」

 「そうだな。……でも、嫌なことを忘れる為に、その前後に少しはあったいいことも忘れちまうなんて……」

 「本当に出来損ないだ。神がいたなら、創り方を間違えたって気づいて、投げ出して、もうどこか他の場所へ行っちまったんだろう」

 「しずくん、漫画書いてたよな」

 「……憶えてるのか?」

 「うん、いま思い出した。ゲームしたりもしたけど、しずくんちにいた間はほとんど漫画のノートを読んでたんだ」

 弓削田はこちらを見て微笑んだ。今日初めて見る笑い方で、それは小学三年生の時の彼の笑顔をはっきりと思い出させた。眼鏡はかけていなくて、少し弱々しい感じの優しい笑顔。

 「悠平、本当に熱心に読んでくれた。俺あの時くらい誇らしかったこと、なかったよ。こうやって大人になって、就職して何とかやってるけど、あの時程の気持ちにはなれていない。どれだけ仕事がうまくいこうが、誰かに褒められようが。悠平がさ、話しかけても反応しないくらい集中して読んでくれてて、息も碌にしてないみたいな、瞬きまで止まってるみたいな。それで読み終わると必ず、続きは? って訊いてくれた。……物凄くうれしかったよ。幸せだった」

 「おもしろかったよ、あの漫画。大好きだった。出版社に持って行ったりしてないの?」

 「親たちには内緒で描いてたんだ。悠平にしか見せてない。他のクラスメイトが遊びに来たこともあったけど、漫画描いてるってこと自体言えなかった。中学になる前に姉に見つかって、チクられて、漫画のノートも集めてた資料も書き溜めてたプロットも、全部捨てられた」

 俺は脳天を殴られたようなショックを受けた。

 「こいつ、姉ってのも殺せばよかったのに。どうにかしてうまくやれなかったのかよ」

 「それからは、何だか描く気力が湧かなくなっちまって。……だから結局、プロにはなれなかったと思うよ。本物の漫画家になるような人は、きっと、誰に何回捨てられても、描き続けるだろうから」

 「その理屈さあ、よく聞くけど間違ってると思うぜ。どれ程の天才だって、最低限の環境は必要だろ。毎日、突然襲われない環境、確実に飯が喰える環境、恐れずに眠れる環境、それが明日も明後日も続くんだと信じられる環境。命の危機で雁字搦めの日々じゃ、どんなに好きなことだって続けられねえよ。そんなのは、恵まれていることに気づきもしない連中が、格好つける為に考え出した綺麗事だよ」

 弓削田がちょっと驚いたように俺を見てから、可笑しそうに笑った。

 「結構言うな。悠平、絶対誰の悪口も言わないやつだったのに」

 「それはひとつでも文句とか言ったら、十倍になって返ってくる家だったから。俺がいい人間だったとかじゃない。……もったいない。本当に許せねえな。今も持ってたら、また読ませてほしかったのに、」

 呼吸がぎゅっと喉に痞えた。

 足も止まった。

 炎天下なのに背すじが一気に冷たくなった。

 二、三歩先に進んだ弓削田が気がついて、振り返った。

 「どうした?」




 二人で時間ぴったりに本堂に上がり、住職に挨拶して読経が始まった。

 参列者は俺ひとりと申し込んでいたのでどうなるかと思ったが、お斎の予約はしていなかったし、幼馴染みですと紹介すると許してもらえた。

 焼香を済ませてまた座布団に座っても、俺はまだずっと混乱が続いていて、つい風行の姿を捜して横や後ろを向いた。

 「……悠平?」

 読経中一回だけ、弓削田が小声をかけてきた。

 「大丈夫か?」

 俺は弓削田の顔を見てますます不安になったのだが、ただ肯いた。

 

 

 

 仏花は寺までの道中にあった花屋で買っていた。線香は住職にお布施を渡した時に受け取った。ゴミ袋はポケットにねじ込んできていた。

 墓の前まで辿り着くのに少し時間がかかった。場処を正確に思い出すのに手間取った。俺は風行が見当たらなくなったことに、まだパニックを起こしていた。

 手桶に水をいっぱいに入れて、しずくんが運んでくれていた。

 俺がおどおどと同じ通路を堂々巡りしても、彼は黙ったままついて来ていた。

 灼熱の天日に眩暈すら覚え始めた頃、やっと、見つけた。

 『杉山家』と彫られた、乾いた苔や落ち葉や雑草で汚れた小さな灰色の墓。母親は何故か最後まで父親との離婚手続きをしていなかったので、自動的にこの下に収められた。

 しずくんが手桶のほかに柄杓や貸し出されていたタワシを持って来てくれていた。

 去年確かに、叔父や叔母や従兄弟と、汚れた墓石を洗った憶えがあった。

 俺は道具一式をしずくんから受け取って、まず苔を擦り落そうとした。

 「じゃあ俺、落ち葉とか雑草取るよ」

 しずくんが座り込んで言う。

 「いや、いいよ。手が汚れる。すぐに済むから、その辺の木陰で待ってて」

 「俺、墓の掃除なんてしたことないんだ。まともっぽいこと、やってみたい。やらせてくれ」

 「……」

 風行なら何と言っただろう。俺は木偶の坊みたいに肯くことしかできなかった。

 

 

 

 たぶん二十分程度しかかからなかったと思うが、二人とも汗だくになった。

 最後にわずかに手桶に残っていた水を花立に注ぎ、花を挿した。

 線香にライターで火を点け、窪みに立てた。

 「花だの線香だのって、実はお参りする側の為のものらしい」

 「え? そうなのか?」

 「ああ。こちらの身や心を清める為のものなんだと」

 「知らなかった。うち、本当に法事とか慶事とか参加しない家庭だったんだ。親戚一堂に借金しまくってて、顔出せなかったんだよ」

 「親戚は『外』じゃなかったんだな」

 「そうそう。何故か血縁者には甘えるだけ甘えていいと思い込んでた。だから全員から見捨てられた」

 「墓参りで、おんじきって言う故人の好物とか所謂お供え物は、唯一死人の為のものらしい。お供えしてお参りしたら、持って帰って生きてる人間が食べるらしいけど」

 「……」

 「俺は、一生、こいつらに喰い物も飲み物もやるつもりはねえ」

 止める暇もなく口から溢れ出していた。

 風行がいないから。代わりに怒ってくれないから。心の中身をそのまま言葉にしてしまう。止める術を、俺はもう知らない。

 墓石の下、骨壺が収められている辺りに向かって、立ち尽くしたまま嘔吐するみたいに喋り続けた。

 「あのな、お父さんをぶち殺したのは俺だよ。もうあと一回だって殴られたくなかった。殴られ終わったあと、どれだけ苦しんでても、泣いてても、お母さんは一度も手当てしてくれなかったよな。血がなかなか止まらなくても、歯が折れてても、熱出してても。痛みで食べれなくても。眠れなくても。学校を休ませるちょうどいい口実ができた、くらいにしか考えてなかったろう。ごくたまに素面だった時のお父さんは好きだったよ。あれ、たぶん幼稚園かもっと小さい時か、抱っこしてくれたり、おんぶしてくれたり、そういう記憶がある。それに俺がサッカーが好きなんだって気づいて、ねだったわけでもないのにサッカーボールを買ってきてくれた……あの時くらい、うれしかったこと、なかった。お父さんのことが好きだった。酒なんてこの世から無くなればいいのにと思ってた。どれだけ優しくても、一杯でも飲んだらもう化物だった。お母さんは一回も、口先でさえ止めてくれなかったよな。俺大人になってから肩痛めた時に、整形外科に行ったんだよ。レントゲン撮ったら肋骨に少なくとも三箇所折れた痕がありますって言われた。あの頃、殴られたおしてる時、このまま死ぬのか仕方ない、おなかいっぱい食べたかったけど仕方ない、サッカーもっとやりたかったけど仕方ない、って何度も何度も何度も諦めた。でも、友達の、お隣のしずくんのさ、しずくんの描いてる漫画の続きだけは、どうしても諦められなくて。どうしても読みたくて。だから、殺されたくないから、殺そうって決めた。酔っ払ってるお父さんはお父さんじゃないんだって自分に言い聞かせて。あれは悪者、風行が闘ってる敵と同じなんだって。階段から突き落とした時、お母さんは男と出かけてて、夜遅くまで帰ってこなかったよな。帰って来た時はきっともう、完全に息絶えてた。確か、お母さんは救急車を呼んだ気がするけど、はっきり思い出せない。警察もいっしょに呼んだのか? 俺、警官にあれこれ訊かれた気がするんだけど、これもぼんやりとしか思い出せない。……とにかく、お母さんが泣いてたことは凄え憶えてる。涙流して、くねくね警官に寄りかかって、泣き顔してたよな。警官が、ティッシュの箱を取って渡してた。あの時程、頭が混乱したことなかった。おまえお父さんのこと大嫌いじゃん。心の底から馬鹿にして、毎日罵倒してたじゃん。何回思い返しても、何回考えても、俺はおまえが理解できないよ。おまえという人間が理解できない。できなかった。おまえは酒を飲まなくても、そもそもが化物だった。でもやっと、炎に焼かれて、灰になった。去年この目でしっかりと見た。骨壺に入れた。それで、あれから、ようやく一年が経ったんだ……。そんな姿じゃもう、言いたいことも言えないし、したいこともできないよな。陽の射さない暗い穴の底で、ずっと餓えていればいい。渇いていればいい。化物同士で憎しみ合いながら。俺は死んだあとも、そこには入らねえ。その辺に散骨してもらう。それだけはもう遺書に書いた。……だからもう、出てくるな。現れるな。ただの灰の癖に俺の周りをうろうろするな。また殺そうって、その度に風行が」




 「悠平」

 いつの間にか弓削田が横に立っていた。

 「そろそろ行こう。どこか、涼しい処で少し休もう。お盆過ぎでも墓参り来るやつらって結構いるんだな。あっちの、家族連れみたいのがさっきからこっちを見てる」

 俺は滴り落ちる顔の汗をスーツの袖口で拭きながら、言われた方を見た。何列か向こうの墓石の群れの間に、両親と中学生くらいの男女の子どもの四人連れがいて、確かに子ども二人がちらちらとこちらを見ていた。

 「俺の声……、大きかったか」

 「いや。いまと同じくらい。内容は聞こえてないだろう。でもひとりで長く喋ってたから、物珍しく思われたんじゃないか」

 「……そうか」

 俺はもう一度汗を拭って、弓削田を見た。

 「しずくんも凄い汗だな。悪かった、付き合わせて」

 「いや、何言ってる。俺が来たかったんだ。事前に連絡もしないで勝手に付いて来て申し訳なかった。でも、どうしても悠平ともう一度話したかったんだ。一周忌のこと聞いて、きっかけにできるかもしれないと思って。墓参りのシステムとかわかってなかったから、俺、事前に申し込みを寺にするって知らなくて、さっき坊さんに変な顔されたよな。ごめん」

 「大丈夫だよ。本来は、一周忌って割とおおごとで、親戚一同でお斎って会食もするらしい。でもうちはこんなだからな。何も問題ねえよ。本当に一度も経験がないんだな」

 「ああ、香典がもったいないって言って断ってた。自分らの服だの時計だのは分不相応なもの揃えてたくせに、中身は乞食だったよ」

 弓削田からの香典は寺に上がる前に受け取っていて、綺麗な一万円札が一枚入っていた。きっとネットやらで相場を調べたり、あれこれ考えたりしたんだろう。迷ったが、受け取った。香典返しは何にしたらいいだろうと思った。

 「だからこの喪服も、今日の為に買ったんだよ」

 ちょっと笑ってしまった。ごく普通の黒いスーツは、暑そうではあったが、背の高い弓削田に似合っていた。喪服が似合うことが、いいことなのかはわからなかったが。

 「わざわざ。……一周忌の日にちは大家さんに訊いてわかったとしても、時間は? 俺誰にも言ってねえよ。おまけに、予定よりだいぶ早くアパートを出たんだ。たぶん自分が、途中で何度も休みながらじゃないと辿り着けねえと思ったから」

 「……気味悪く思うだろうが、朝からおまえのアパートを張ってた。斜め向かいに、小さいドラッグストアがあるだろう。店内をうろうろしながら、おまえが出てくるのを待ってた。店の人に、万引き犯か何かと思われたみたいで、ずっと付け回されたよ」

 「仕事は?」

 「今日は有給取った」

 「そんな面倒臭えことするなら、いっそ、じかに部屋へ訪ねてくればよかったのに」

 「……憶えてないだろうと思ったし、もし憶えていても、嫌がられるかと。俺の顔見たらいろんなこと思い出さなきゃならなくなって、拒絶されるんじゃないかと思った。十八年も経ってるし、俺にはおまえのドリブルがあったからすぐに悠平だって気づいたけど、悠平が俺の何を憶えてるのかって思うと……。だからおまえが具合悪くしてあそこで立ち止まっていなければ、あくまで参列者のひとりとして、挨拶だけでもできればって思ってたんだよ。まさかひとりでの一周忌とは思ってなかったから。もしお寺で、久しぶりって声かけてたら、それはそれでかなり気味の悪いことになってたな」

 二人で寺の入り口へ引き返し、手桶や柄杓やタワシを洗ってから返却して、枯れ葉や雑草が入ったゴミ袋をゴミ置き場に置いた。トイレで手と顔を石鹸と水で洗って――冷たくて心地よかった――、濡れたままの手も顔も、寺の敷地から出る頃には杪夏の熱気に蒸発していた。

 俺は上着を脱いで、本殿に上がる時にきっちり締め直していたネクタイを解き、適当に丸めて上着の内ポケットに突っ込んだ。弓削田も同じようにして、衿許のボタンを外して腕まくりもした。

 「憶えてないどころじゃねえのは、わかっただろ?」

 弓削田は笑った。

 「風行の名前が出てきたのは、ぶったまげた。聞き間違いかと思った。俺自身のことはすっかり忘れてたくせに」

 「そうだよな。不思議だ。俺もさっき気がついた時ぶったまげた。……風行は、ずっと、俺のそばに居てくれたんだ。父親を殺して、事故死で片付けられて、急に引っ越しが決まった辺りから。あまりにも当たり前に居てくれたから、しずくんの漫画のキャラクターだってこと、忘れていた……。本当にいつでもすぐそばに居た。俺が言いたくても言えないことを、全部言葉にしてくれた。やりたくてもできないことを、こうすればいいんだって教えてくれた。……ちょくちょく頭から血を流した酒臭い父親の幻を見るようになったんだ。幻なのか、幽霊なのか知らねえけど。それで俺が動けなくなっているといつも風行が『もう一回殺せばいいだけだ。あんな奴どうってことねえ。簡単だ』って言ってくれた。実際に傘で殴ろうとしたり、電気ポットを投げつけたりもしたけど、当たらなくて、それでも風行が父親を罵り続けてくれてるうちに消えるんだ。それのくり返し」

 「……風行か……。いたな。大事なキャラだった」

 「キャラ、なんだよな。そうなんだよな。本物のクラスメイトや同僚よりずっと、俺には現実だったのに」

 消えてしまった。

 俺はこれからどうなる?

 どうやって生きていけばいい?

 「あそこは? 喫煙席あるかな」

 弓削田が指差したのはチェーン店らしいコーヒーショップだった。

 「喫えなくてもいいよ。とにかく暑い。入ろう」




 やはり喫煙席はなかったものの、時間帯の割には空いていて、奥の窓際の席に座れた。

 弓削田はアイスコーヒー、俺はアイスラテを頼んだ。

 店内は別世界のように涼しく、渡されたアルコールティッシュで俺が顔を拭うと、弓削田はおっさんだ、と笑った。

 「ハンカチとか忘れたんだ。仕方ねえだろ」

 「悠平も独り身なんだな」

 「当たり前だ。あんなもん見せられて、結婚したいとか、子ども欲しいとか、思うわけねえだろ」

 「だな。……なあ、いまは風行はどうしてるんだ?」

 「それが……」

 俺は氷の浮いた冷たい水をまず喉に流し込んだ。

 「さっき寺に着く前に、しずくんが描いてた漫画のことをはっきり思い出して、そこでようやく風行が何者か思い出したんだ。……そうしたらそれっきり、居なくなっちまった」

 「え? 居なくなった?」

 俺は無駄と思いつつ周囲を見回した。

 「ああ。しずくんの漫画に出てきてた、って思い出した途端。……風行が居なくなったことなんて初めてで、だからさっき墓の処では、実はかなりパニック状態だったよ」

 弓削田までつられたように店内を見回した。

 ウェイトレスが飲み物を運んできた。

 テーブルに乗ったアイスラテに俺がガムシロップを入れると、弓削田は笑った。

 「悠平って昔から甘党だったよな。うちでも、ポテチよりチョコとかクッキーばっか食べてた」

 「うん。しずくんちのおやつ、夢みたいにおいしかった」

 「なあ、朗のことは憶えてる?」

 「憶えてる。と言うか、思い出してきた」

 俺はストローを挿しながら記憶を探った。

 「風行がいつも、極端なことばっかりしてたよな。実は計算ずくなんだけど、傍から見たら常識外れのただの莫迦って感じで。で、朗はすべてを理解してて、いつも一歩先を読んで風行がやり過ぎないよう手綱を取りつつ、でも内心では風行のことを誰よりも信頼してた。……あ」

 俺は甘ったるいアイスラテを飲み、唐突に少し声を大きくしてしまった。

 「七。いたよな? 女の子」

 「七。なつかしい。俺、女の子を描くのが苦手だった。絵を完成させるの、七がいちばん時間かかったよ。でも三人組にしたかったし、女の子も登場させたかったから」

 「いたいたいた。可愛かった。スカートはあんまり穿いてなかったよな。男みたいな格好して、小さくて、髪が肩くらいまであって……ある意味、風行より滅茶苦茶じゃなかったか?」

 「そうだった。がまんが利かなくて、後先考えないで行動するから、しょっちゅうトラブルを起こして朗に怒られてた。でも、喧嘩は強かったんだよ」

 「そうだ、そうだ。特に蹴りがかっこよかった。ハイキック。延髄切り。得意だったよな?」

 「よく憶えてんな。そう。チビだからまず飛んで、相手の首の後ろに脛を叩き込んで、相手がふらついた処をもう一回ジャンプして脳天に踵落としする。それで失神させる」

 「あったあった! そのページ、今凄えはっきり浮かんでる。かっこよかったよ。大男もひとりでぶっ倒してたよな」

 「うん。でもたまにやり過ぎて、朗に怒られるんだ。文句は言うけど結局、朗や風行の言うことは素直に聴いて、反省する。でも似たようなことが場面になると結局揉め事を起こして、事態をややこしくするんだよな」

 「そうそう、ほんと、おもしろいヒロインだった。全然女の子らしくなくて、可愛い顔してるのに、ばさばさの髪で隠すみたいにしてて」

 弓削田はストローでグラスを幾度かかき回した。

 「悠平のそばにずっと風行が居たって、何だか不思議だ」

 「え? ……まあ、病院に行った方がいいのかもしれないとは、何度か考えたよ。でも……」

 「いや、そういうことじゃなく。あの物語の中で一番頭が良かったのは、朗だった。相談したいことがあったら、朗に訊く方が確実な答えが返ってくる気がする」

 「……」

 「幻が見えて困ってたなら、七がいた方が話が早かったんじゃないか? 七なら悠平の敵だって認識した瞬間、彼女自身が攻撃してくれたんじゃないかな」

 俺もアイスラテをぐるぐるとかき回した。集中してしばらく考えたあと、迷いはあったが、言うことにした。

 「あの漫画の中で俺がいちばん好きだったのが、風行だったからだと思う」

 「そうなのか? まあ、主人公は誰かって言えば風行ってことになるのかな。三人平等に描きたかったけど、確かにいちばん目立ってたよな」

 「いや、俺が風行を好きだったのは、まずかれがいちばんしずくんに似ていたから。それから、かれが孤児だったから。それから、いちばん優しくて、いちばん嘘を吐くのがうまかったから。それから、朗と七以外の、すべての人間を憎んでいたから。それから、かれが、男でも女でもなかったから」

 弓削田はストローをいじっていた手を止めた。

 「生まれた時からどっちの性器も持っていなかったんだよな。名前は孤児院の職員が付けた。風が強い日に捨てられていたからって。だから名前に合わせるようにずっと男の服を来て、男の言葉遣いをして、髪を短くして、男のトイレを使ってた。誰も里子に欲しがらなくて、中卒で就職した。男のふりして生活して、でも裸は絶対に誰にも見せなかった。仕事の関係でまず朗と逢って、そのあと七と知り合った。朗と七には、風行は打ち明けることができた。二人は風行を男扱いも女扱いもしなかった。三人はまるで家族みたいに寄り添って生きるようになった」

 俺はアイスラテをごくごくと飲んだ。 

 「あれって、ミステリーだっただろ? アクションシーンも結構あったから、アクションミステリーってことになるのかな。三人が、あるいは三人のうちの誰かが、突然殺人事件に巻き込まれるっていう導入が多かった。そうじゃなければ、噂を聞きつけた誰かから解決を頼まれたり。いろんな話があったけど、それぞれが活躍して、最後には犯人を突き止める。俺は毎話毎話どきどきして、あの漫画の世界以外どうでもよくなって、でもどれだけ考えても犯人が誰なのか全然わからなくて、それを三人が、動機とか、殺し方とか、少しずつ調べて推理して明かしていって、最後に犯人がわかると、うわーって心底驚いたんだ。鳥肌が立って、三人全員、滅茶苦茶にかっこよかった。本当に。本当におもしろかった。大好きな漫画だよ」

 「……」

 「さっき、あの漫画全部、それからしずくんが一生懸命描いてたプロットや集めた資料も、お姉さんが親に言いつけたせいで捨てられたって訊いた時、風行が、お姉さんも殺せばよかったのにって言った。俺もそう思った」

 「……」

 「風行は心があちこち壊れていたけど、芯はとことん優しかった。俺よりずっと良識とか、自制心みたいなものを持ち合わせてた。だから俺は、ここまで何とか生きてこれたんだ。母親を殺したあと、俺の周囲を彷徨う死人は二人に増えた。俺は父親の影と母親の影と、二人と戦わなくちゃならなくなった。それでも風行はまったく平然としていてくれた。あんな奴ら何ひとつこわくねえ、悠平がやったことは正しいことだって、言ってくれた。生き物が死の直前まで追い詰められたら、反撃するのは当然のことだって。生き物は、生き続けるようにできているんだって。だから自殺はそう易々とはできないし、常に生き延びる為の方法を脳も肉体も希求して実行する、それが生物なんだって」

 「……」

 「当時俺は、風行が無性――という言い方で合ってるか? ――である意味を、わかっていなかった。しずくんは本当に凄いな、とただ単純に思ってた。もしかしたらこの先のお話で、風行の出生が顕らかになっていって、無性である理由もわかってくるのかな、とか考えたりもした。……今思えば、アクションミステリーにはそぐわないテーマだよな。性別を持たない人間」

 「……」

 「さっき電車の中で、しずくんが打ち明けてくれただろう。言葉にして。ひとに話すなんて、どれ程苦しかったか、どれ程勇気がいったかと思う。……俺なんかに話してくれてありがとう」

 弓削田はアイスコーヒーに視線を落とし、ひどくゆっくとした動きでそれを飲んだ。氷だけになるまで。それからストローから口を離し、テーブルに畳んであったアルコールティッシュでまた両手を拭った。

 「……そう、かもしれない」

 弓削田は長い沈黙の後、ようやく俺の目を見て、感情を失った声で言った。

 「性器なんかなければ、こんな恐ろしい目に合わずに済んだのにって、何百回も考えてたからな。きっとそうなんだろう。決して意識して創ったわけじゃなかったけど、悠平の言うとおりだ。俺が描きたかったのはドタバタしたコメディ要素のあるミステリーで、風行はべつに普通の男でもよかった筈だ。あるいは女でも。それなのにわざわざ、そんな設定にしてたんだよな。……朗と七から以外は、誰からも愛されない人間にしたかったし、風行も、朗と七以外は誰も愛さない人間にしたかった。そんなの、ミステリーとは、何の関係もないことなのにな」

 「しずくん。俺のそばにずっと居てくれてありがとう。きつい時、危険な時、死にそうな時、いつも言葉をかけてくれてありがとう。俺を生かそうとしてくれて、ありがとう」

 弓削田はしばらく黙っていた。

 「悠平のそばにいたのは風行だろ? 俺じゃない。俺は何もしていない」

 「違う。風行を描いて俺の傍らに棲みつかせてくれたのは、しずくんだよ。あの世界を創って俺に、今とは別の居場所だって有り得るんだって教えてくれた。あの漫画がなかったら、俺は小三で父親に撲殺されてた」

 「でも」

 俺は首を横に振って遮った。

 「確かに結果俺は犯罪者になった。それも両親殺し。でも、一度だって後悔したことはない。代償はもちろん大きい。毎晩よく眠れないし、幻だか幽霊だかを見て風行の相手もして、挙動不審になって会社で変人扱いされてる。この先死ぬまで家族は作れないだろう。それでも。それでも、だよ」

 「……」

 「それでも例えばこのアイスラテはうまいし、エアコンは涼しくて気持ちいいし、幼馴染みに再会までできた。お互い生き残っていることを確認できて、誰にも言えないでいることを、話し合うことさえできている。俺はやっぱり八歳で殺されていなくてよかったと思う」

 「……」

 弓削田の顔が、少しだけ表情を取り戻したように見えた。何かを考え込むように空になったグラスを見つめている。片手でハンカチを取り出して、汗はもう引いているのにそれで首を拭った。

 「悠平」

 「何?」

 「俺。俺さ。俺も。……両親を殺したこと、本当は、少しも後悔してないんだ」

 「うん。当然そうだよな」

 「勝手に酔っ払ったのはあいつらなんだ。いつもそうだった。高い酒がぶがぶ飲んで、まっすぐ歩けないくらいになると動物みたいにその辺で、せ、……っせ、せ……せせ。せっ、セックス、始めてた」

 「しずくんの前で?」

 「俺がいても、いなくても。もちろん俺は恐ろしくて、始まったらいつも自分の部屋に逃げてイヤフォンで音楽を聴いていた」

 「うん」

 「あの日は凄く暑くて、夜になっても全然涼しくならなくて、俺は会社から帰ってすぐにシャワーを浴びて、食事は外で済ませてたから、そのまま自分の部屋へ行ってエアコンを点けた。まだ就職して四カ月くらいで、仕事に慣れられなくて、心底くたくただった。それなのに長い間眠れない日々が続いてて、物凄くきつかった。でも、あの日はベッドの上でぼんやりしてたらいつの間にか寝入ってたんだ」

 「うん」

 「本当に久しぶりな、貴重な眠りだった。そのまま朝まで眠れていたらどれだけ良かったか。それなのに猿どもが騒ぐ声と音で叩き起こされた」

 「しずくんの部屋、二階だったよな? そんなに煩かったのか?」

 「いや、どうやら二階の寝室に行こうとしてたみたいだ。いつもは床だろうがテーブルだろうがトイレだろうが、どこでだってやってたのに。ぎゃあぎゃあ騒ぎながら階段を這い上って来てて、ちょっと滑り落ちたらお互いげらげら笑って。俺は本当に、真剣にただただ眠りたかったんだ。数時間でも集中して眠れれば、少しは楽になれたのに。苦痛しかない現実に無理矢理引き戻された」

 「……」

 「俺、父親にも母親にも、直接文句を言ったことがほとんどなかったんだ。報復が恐ろしくて……黙り込んでひたすら耐えるのが、当たり前になってた。でもあの時は、俺はほとんど何も考えないで廊下に出て、階段の降り口で絡み合ってる半裸の猿二匹に煩えんだよって怒鳴った」

 「……」

 「そんな口、親にきいたことなかった。向こうはべろんべろんだから、何が起きてるのかよくわかってなかったみたいで、母親はにたにた笑ってて、父親は俺をぽかんと見上げてた。いつもだったら恐ろしくて堪らないその顔が、憎くて憎くて憎くて、身体中がぶるぶる震えた……」

 「酔っ払いって煩くて臭くて野蛮で低能で、あれってもう人間じゃねえよな」

 「うん。二人とも煩いのを止めねえからさ、聞こえてなかったのかと思ってもう一回、腹の底から声を出して、煩えって怒鳴って、父親の頭を蹴った」

 「跡残らなかったか?」

 「大丈夫だったみたいだ。二人とも縺れ合ったまま転げ落ちていって、途中で何度もえぐい音がして、だからきっと俺が蹴った痕も、階段や壁や床にぶつかったのと見分けられなかったんじゃないかな。……あとは言ったとおり」

 「死ぬまで見てた」

 「そう。警察も言ってたけど随分時間がかかったよ。でも形が顕らかに普通じゃねえんだよな。あちこち折れ曲がってて、内出血した部分は膨らんで、しかも碌に服すら着てなかったからどれがどっちの腕なのか脚なのか、よくわからなかった。それを見て、……これは、放っとけば死ぬだろうと思った」

 「隣近所とか、大丈夫だった?」

 「あの二人が正常じゃなくて、朝だろうが夜だろうがやかましいのはもう昔からだったから。それに落ちてからは、あとで警察が教えてくれたけど、二人とも喉の中の軟骨がずれて掠れた声しか出せなかったんだと。家の中が静かになって、心底ほっとしたよ」

 「よかったね」

 「しばらくはただぼんやりしてたんだけど、一旦自分の部屋に戻ったんだ。涼しい部屋で、今度こそぐっすり眠れるかもしれないと思って。万が一にも声や音が聞こえないように、イヤフォンしてベッドに横になった。……でも、眠れなかった。結局また階段の処に戻った」

 「うん」

 「二人の位置とか体勢とか、少しだけずれてたけど、あいつらのスマホがキッチンにあったのを俺は見てたし、家電はリビングだし、あとどのくらいかかるのかなって眺めてた。立ってるのが疲れたから、一番上の段に座って、ただ見下ろしてた」

 「風行だったら、いや、俺だったら、思いつく限りの罵詈雑言を浴びせてただろうな」

 「うん。何て言うんだろうな。言いたいことは確かにいっぱいあったんだけど、それより、あいつらが必死に俺のこと見上げて、助けて、って言ってるのが、変と言うか……」

 「ふうん?」

 「変だよ。助けるわけねえだろ? 助ける理由なんてひとつもねえだろ。俺に、あれだけ酷いことをしておいて、どうしてその相手に助けてくれなんて言えるんだろうって、わけがわからなくて見てた」

 「なるほど」

 「さっき悠平も言ってたけど、俺も最期まであいつらのことを理解できなかった。謎だった。あれは、そうだな、確かに人間じゃなかったんだろうな。……完全に死ぬまでたぶん、一時間半くらいかかった。喉が渇いて飲み物を取りに行きたかったけど、まあそれは我慢した。何も言わなくなって、それでも呼吸はまだしてるなって見てて、それから先に父親が、そのあとに母親が、目玉を動かさなくなった。二人とも、福笑いみてえなまぬけな面だった。それでも万が一蘇生なんてされたら堪ったもんじゃないから、自分の部屋に戻って、ベッドでまた音楽を聴いてた。二時間以上してから、二階のトイレに行って、また自分の部屋へ戻ろうとした時に気づいたってことにして、救急車を呼んだ」

 「偉い。ひとりで、ちゃんと、全部やったんだな。立派だよ。風行も、朗も、七もいなかったんだろう?」

 「うん、俺のそばには誰もいなかった」

 「凄えよ。よくやり切った」

 弓削田はアイスコーヒーを飲もうとして、それがもう無くなっていることを思い出し、グラスの水を飲んだ。

 「もう一杯頼む?」

 「……悠平は?」

 「俺もまだ喉渇いてる」

 「時間とか」

 「今日はもう何もないよ。一周忌が済んだら、帰り道また嘔きながらのろのろアパートまで帰って、明朝まで幻を追い払いながら何とか少しでも身体を休ませようとしか考えていなかった」

 弓削田は二杯目のアイスコーヒーを頼んだ。俺は今度はオレンジジュースにした。

 飲み物が並べられてウェイトレスが去ってから、しずくんは片手で耳の上あたりの髪をかきむしった。

 「……俺は本当に、間違っていなかったかな」

 「間違っていない。決まってるだろ。この世から害虫を二匹減らしてくれた。たくさんの人間がその恩恵を受けてる」

 「さっきは後悔してないって言ったけど、俺、ひとつだけ実は悔やんでいることがあって」

 「そうなのか? 何?」

 しずくんは、ガムシロップもミルクも入っていないアイスコーヒーをしばらく飲んだ。

 「……き……、き。きっ……」

 俯いて、口許を甲で幾度も拭うが、うまく発語できないようだった。俺は迷いつつ、しずくんの肩に掌を置こうとして、やはり止めた。

 「ちゃんと聴いてる。大丈夫だよ。何も焦るな。言い終えるまで、ちゃんと聴いてるから」

 しずくんは視線を上げ、俺の表情を推し量り、また下を向いた。

 「きっ、……きり、き、……り、お、おと、お。おお、お、おと、おっ、おと、ばっ……」

 「……」

 「お、おっ、おと、せば。……きりおとせ、ば、き、きっ。そうしたら……、よかったって……」

 「うん」

 「思うんだ。べつにもう警察に捕まったところで構わなかったじゃないかって。何年刑務所に入ろうが、いやいっそ死刑になったって、それでもいいから、あいつの」

 「いや。それは違う」

 俺は断定した。

 「そんな真似しなくて良かった。切った瞬間は、そりゃ少しはすっきりしたかもしれない。でも、犯罪者なんかにされたら生きるのが糞不便になる。刑務所に入ったら中でだってたくさん嫌な思いするぞ? 人生無駄にすり減らして出所しても今度は、就職先も住む処も制限されるんだ。安い賃金でこき使われてボロアパートに住む? しずが? 何なんだよそれ? どうして? そんなのおかしいだろ。間違ってるだろうが。しずは、これからうんと幸せになるんだ。幸せになって、楽しく元気に長生きするんだ。そう決まってんだよ」

 弓削田は血の気を失った顔で俺を見つめていたが、ほんの少し、ほんの少しだけ、唇の端を上げた。

 「今の話し方、風行みたいだった」

 「そうか? ……そうかもな。でもこれは、俺の本心だよ。しず、おまえは何ひとつ間違ってない。生物として正しいことしかしていない。ずっと逃げてきた、もっと逃げないと、って言ってたけどそんな必要はねえ。しずが逃げなくちゃいけない人間はこの世から消えた。おまえはもう誰からも逃げる必要はない」

 「……」

 「お姉さん?」

 「……いや……」

 弓削田はしばらく考え込むように宙を見つめていた。

 「わからないな。あの人のことは。凄く遠くにいるんだ」

 「遠く?」

 「うん。旦那さんの仕事の都合で、カリフォルニア州のサニーベールって処に住んでいる。らしい」

 「それは確かに遠いな」

 「相手のことも、いつ結婚したのかも、いつ渡米したのかも、何も知らない」

 「住所はどうやってわかったんだ?」

 「両親が死んだ時、警察が親のスマホに連絡先が入ってましたって教えてくれた。でも俺は何も連絡していない」

 「じゃあ、向こうもしずくんの居場所は知らないんだな」

 「警察が伝えたかもしれないと思って、さっきも言ったように引っ越しをくり返したから、知らない筈だ。……距離っていうのは多力だよ。外国ってだけでまず、逢うことに現実感がなくなる。地図を見てこの辺なんだと思っても、自分がそこまで出かけていく姿がまるで浮かばない。向こうがこちらに来るイメージもまるで湧かない」

 「そうだな。もし逢おうと思うなら、時間も金も手間暇も相当かかるよな。双方に強い意志がなければ不可能だろうな」

 「うん。両親の葬式を、姉が執り行ったのかどうか知らないのは、そのせいもある。俺は警察から解放されたその足で必要最低限のものを持って、家から逃げた。漫喫や安いビジホを彷徨いながら会社だけには何とか行って、半年の間に三回くらいかな、真夜中に帰宅して残りの自分の荷物を運び出した。……漫画本さえ諦めれば、俺の荷物なんて本当に少なくて簡単だった。両親の通帳やら現金には触らなかった。自分の最初のアパートが何とか決まって一年以上経った時、近くに行く用事があって、思い切って実家の方を見に行ってみたんだ。更地になってた。姉が手続きをしたのか、親戚の誰かがしたのか、何も知らない。『売地』って立て看板が立ってた。……あれはうれしかったな。全部きれいに消えてた」

 「そんな風に姿を消して、警察に怪しまれなかった?」

 「何度かは連絡が来たよ。電話が来れば、では署へ伺いますって答えてたけど、いや、その辺の店でいいので少し確認したいだけですって、ドラマみたいに二人組の刑事と、喫茶店で何度か話した。睡眠の妨害をされたこと、父親の頭を蹴ったこと、それだけは言わないで、他は全部話した。何故家に帰らないんですかっ質問には遺体を見たので思い出したくないし、もともとひとり暮らしを始める予定だったので準備をしてますって答えた。お葬式に来なかったのは何故ですかって訊かれて、迷ったけど正直に言った。子どもの頃から二人にくり返し暴力を受けていたので、心の中に少しも弔う気持ちを持っていませんって。それでは都合よく亡くなられたということですか、って言われて、危うく噴き出す処だった。何とか笑わなかったけど、バレてただろうな。あいつらプロだもんな。そうですね、一度で片付きましたって答えたよ」

 俺は思わず笑ってしまった。

 「やっべ。そんなこと言ったの?」

 「言っちまった。笑わないように急いで飲み物を飲んで、でも、それ以上は何も訊かれなかったよ。二人で目くばせみたいのしてたけど、お忙しいところお時間を戴いてありがとうございました、ご愁傷様でございました、だって。……これ」

 弓削田は人差し指でシャツの衿の斜め後ろを、少し引っぱった。空き地でちらりとだけ見えた、白っぽくでこぼこに盛り上がった長い傷痕だった。

 「その時はTシャツ一枚だったから、こうやってしなくても傷の端が見えてた筈だ。……子どもの頃、たぶんまだ幼稚園とかだったと思うけど、何かで怒った母親が釘で刺して、刺さった状態で背中の方へがりってやられたんだ。俺はもちろん大声で泣いて、でも逃げられなかった。父親に押さえつけられてたから」

 「……いまちょっとおもしろい気分だったのに、もう嘔きそうだ」

 「不思議と痛みは憶えてない。相当痛かった筈だけどな。それより血の量に驚いて、うん、どこもかしこも真っ赤だった。父親が俺にぐるぐる包帯巻いてたことは憶えてる。でもその包帯もすぐに真っ赤になって。あれはこわかったな……。今もたまにあの釘と、母親の形相が夢に出てくる」

 「どっちも完全にいかれてるじゃねえか。精神科の閉鎖病棟に入院してる人間の方がもう少しまともだろ。錆びてたら、破傷風になって死んでたかもしれない」

 「そうだな。どうだったかな。いや、光ってた気がするから、錆びてはいなかったのかも」

 「それにしたって、そんな大怪我させて、普通病院へ連れて行くだろう。救急車を呼ぶだろう。そんな小さな子どもを……」

 「外面、外面」

 「そうか。……そうか。恐ろしいな。本当。……しず、本当おまえ、よく生きてたな……」

 「夏服だと微妙に見える位置にあるから、たまに誰かに訊かれたりする時が、本当に嫌なんだ。水泳で水着になったりするのも苦痛だった。一学年につき十回ずつくらい、後ろ向きに転んだって嘘ついてた気がする。……他人の身体に変な傷があったら、悠平ならどうする? それどうしたのって訊くか?」

 「いや俺はスルーだよ。だって周りの誰より汚ねえ身体してるんだぜ、俺の方が。おまえこそどうしたんだって話になるだろ」

 「……、いろいろ言われた?」

 「まあ。俺はいちいち説明するのが嫌で、と言うかその傷について考えること自体が耐えられなくて、憶えてないの一点張りだったよ。しつこい奴もいたけど、とにかくそれで通した。ほら、袖もさ、暑くても普段は捲れねえんだ」

 言いながら、俺は両腕のシャツを順に肘まで捲り上げた。

 「右はまずこのケロイドがあるだろ。左の手首は何度も何度も靴のヒールで踏みつけられた痕。夏は嫌だよな。半袖の体操着も、水泳の水着も、俺も大っ嫌いだったよ」

 「ああいうの、無邪気な顔で訊いてくるやつが、本当に憎かった。こいつには想像すらできねえんだなって。どんだけ平和な人生なんだよって」

 「わかる。給食を必死にガツガツ食べてると、必ず笑って馬鹿にするやつらがいたんだ。本当に殺してやりたかった」

 「どこかで遭難とかして、餓え死にしてるといいな」

 「本気でそう思う」

 「……とにかくこの痕には恨みと恐怖しかなかったけど、サツが虐待を信じて、それ以上突っ込んでこなかった時だけは役に立った。やっぱり、俺がやったと察した上で、見逃したんだと思うか?」

 「どうだろうな。俺もそれ、母親を殺した時に考えたけど」

 「殺してねえだろ。ちゃんと看病してたじゃないか」

 「ぎりぎり言い訳できるぶんだけな。……ほら、しずの漫画にも出てきただろ。未必の故意」

 「うん」

 「最悪あれになるのかなと思ってた。……でも司法解剖の結果、直接の死因は呼吸困難だったって。咳のし過ぎ。通院記録はあったし、俺が飯や下の世話をしていたことは本当だったし、唯一訊かれたのは服用する薬が無くなっても咳が止まらなかったのに、どうしてもう一度病院に連れて行かなかったのかってことだった」

 「うん」

 「仕事が忙しくて、次に休みが取れたら連れて行こうと思ってましたって言った。俺は直接主治医の話を聴いていなかった、母が嫌がったので外で待っていた、だから、母の言葉どおり軽症なんだと思い込んでましたって」

 「それで通った?」

 「お父様が昔事故死なさってますねって、掘り返された」

 「うわ」

 「父が亡くなった時のことは、母が喜んでいたことしか憶えていませんって言った。男遊びが激しい母親を昔から嫌悪していて、就職してひとり暮らしを始めてからは極力交流しないようにしていた、病気になったって連絡が来て仕方なく看病はしたけどとにかく会社が忙しくて、朝早く出て、夜遅く帰って来てたので、食べ物と着替えくらいしか世話できなかったって言った」

 「うん」

 「残業じゃなくて同僚と飲んでただけの日もあったとか、家族が重病だと説明すれば一日くらいすぐ休めただろうとか、わかってたことはたくさんあった筈なのに、何故かあっさり解放されたよ。……俺も時々思うよ。あの刑事たち、本心ではどう思ってたんだろうって。例えば叔母さんが何か言ってたのかな? 母の気狂いっぷりをよく知ってる人だし、俺が子どもの頃から生傷が絶えないことも知っていた。まあ、それでいて具体的に何か助けてくれたわけじゃねえけどな。あの散らかったアパートや母親のスマホの中身や近所の評判や、そういうの調べればあの化物の正体はだいたい察しがついたんじゃねえかな」

 「なるほどな……」

 「まあ、いいんだよ、それはもう。話がだいぶ逸れちまったけど、しずは、もう逃げたりする必要はないって言いたかったんだ。しずの周りには、風行や朗や七は現れなかったけど、その代わり、父親や母親の幻も出ないんだろう?」

 「うん……。でも時々、どうしてもフラッシュバックはあるな。何秒か、何十秒か、恐ろしく鮮明にあいつらのことが浮かぶんだ。今起こっていることみたいに記憶が蘇って、動けなくなって、変な汗がどっと出て、息が苦しくなる」

 「反芻って知ってるか?」

 「え? はんすう?」

 「うん。牛が、草を噛んで飲み込んで、また嘔き戻して噛み直して飲み込んで、ってやるやつ」

 「ああ。聞いたことある」

 「反芻思考って言葉があって、同じことを何度も考えてしまうことを言うらしい。過去にあった辛い記憶をくり返し思い出して、それについて考えてしまう。それを止めるにはどうするかっつうと、大抵は何か関係ないことをしようとするよな。関係ない、好きなこと。嫌なことを考えない為に、記憶から目を逸らせて自分の好きなことをする」

 「うん」

 「でも、なんか偉い人たちの実験の結果によると、気晴らしで楽になれるのは一瞬のことらしい。と言うか『嫌なことを考えない為に』好きなことをする、というやり方をくり返していると、却ってその嫌な記憶というのは抑制しにくくなってしまうって」

 「……え?」

 俺はオレンジジュースを飲んだ。

 「俺も、意味がよくわからなかった。小難しい文章で、たまたまネットで見つけた言葉を追っているうちに辿り着いた記事だったんだけど。……いろいろ俺なりに解釈して端折って説明すると、気晴らしは一点集中じゃなく、分割するのが効果的だと言ってるんだ。ひとつのことに没頭して現実を忘れようとするんじゃなく、問題の解決に取り掛かる為に、その記憶と向き合いながらまったく関係のない、集中力が必要なことをするんだって。例えば難しい数学の問題を解くとか、料理をするとか」

 「……その記憶と、向き合いながら……?」

 「ああ。『ながら気晴らし』って書いてあった。ひとつの記憶にスポットライトを当てているのを、別の場所にスポットライトをずらす、転換する、これが通常の気晴らしだよな。そのスポットライトを複数にして、分割していろいろなものに当てる、これがながら気晴らし。……これをすると、過去の嫌な記憶を、ポジティブに捉え直したり、気持ちの落とし処や解決策を見つけ易くなるって……」

 俺も弓削田もがまんできなかった。

 ほぼ同時に前屈みになって声をあげて笑いだした。

 無論人目があるので、必死に音量は抑えたが。

 「ばっかじゃねえの。悠平、おまえ、何を言いだすのかと思えば……」

 「だって、くく、俺すぐ嘔いちまうからさ。せっかく喰ったもん、あいつらの姿見たり思い出したりすると、どうしても戻しちまうから。もったいねえじゃん。自分の稼いだ金でやっと毎日腹一杯喰えるようになったのに。だから嘔吐についてあれこれ調べてたんだよ。そしたら『反芻症』っていうの見つけて、そっから『反芻』とか『反芻思考』とか出て来て……」

 「『反芻症』? それは病名なのか?」

 「うん、何かやばそうな病気だったけど、俺は違うよ。だって反芻したりしねえもん。胃から逆流してきたら当然嘔き出すよ。もう一回噛んで飲み込んだりしねえから」

 「そんな病気があるのか? こわいな」

 「ああ。……まあひとりで何とかならねえかと思っていろいろ調べたわけだけど、やっぱり、一度は消化器内科に行くしかねえのかもな」

 「ここの支払い賭けてもいいけど、精神科行けって言われるよ」

 「だよなー。面倒だな」

 「俺もそう思ってたけど……」

 弓削田はからからと氷をかき回した。

 「いっしょに行くのはどうかな?」

 「え?」

 「俺、とりあえず眠れないってことだけ話す。逢ってみねえと医者もいろいろだろうから、とにかく不眠のことだけ相談して、話が通じそうな医者を探すよ」

 「通じそうって?」

 「んー……、察したとしても、余計なことまで突っ込んでこない奴」

 「そんな都合よくいるかな?」

 「さあな。でも何年も考えて、いろんなサプリ試したりしたけど、やっぱり俺にはどうしても睡眠薬が必要だと思った。生き続けていく為には」

 「薬局で売ってるやつは俺も効かねえ」

 「悠平にもまともな睡眠が必要だ。それにそんなに頻繁に嘔吐しているのは、絶対によくないよ」

 「……うん。でも、二十六歳の男が二人で精神科に行くのって気持ち悪くねえか? 受付の人とか引くんじゃね?」

 「最初は、ばらばらにあちこち偵察しよう。数回通って見極めて、だめだと思ったら別の病院へ行こう」

 「俺、ずっと医者にも自然に嘘吐いてきたからなあ。この身体じゅうの傷。正直に親にやられたって言ったことねえ。服からはみ出して見えてる処とか、突っ込まれるかな?」

 「かもしれない。……俺は、精神科医なら、訊くべきだと思うけどな」

 「……」

 「話したくないか?」

 「……わからないな。その場になってみないと。うん。……そうだな、確かに、まともな医者を見つける必要があるな」

 「ああ。全部は無理でも、この人ならある程度事情を話せそうだっていう人を探そう。なあ、……俺たちまだ二十六歳なんだよな。さっき悠平が、俺は元気に長生きして幸せになるんだって言ってくれたけど、悠平も、絶対にそうなるべきだ。今日、たくさんおまえと話せて、本当にそう思った」

 「両親の姿がうろうろしてて?」

 「え? 今見えるのか?」

 「いや、今は誰も見えてない。……でももう風行もいなくなっちまって、俺は生きていけるのかな? 幸せって……、どうやって普通に生活したらいいのかすら、もう全然わからねえよ」

 「サッカーは?」

 「え?」

 「サッカー、ずっとやってないの?」

 「ああ、してない。サッカーどころか、まともな運動もしてない」

 「社会人サッカーとかあるだろ? やる気は起きないか?」

 俺は笑った。

 弓削田がまだ、俺がサッカーがうまいと信じ続けていることが可笑しかったのだが、何故か、不意に涙が溢れそうになった。それと同時に鼓動が速くなって、無我夢中でドリブルしながらフィールドを走っていた時の感覚が全身に蘇った。あの、ボールの感触。周りのチームメイトの叫び声。……それから、何もかもを忘れて一心にリフティングを練習し続けた日々。失敗しても失敗しても、絶対に諦めなかった。日が落ちて真っ暗になるまでやり続けた。

 「そうだな。社会人サッカーはハードルが高過ぎるけど」

 俺はジュースを飲みながら必死に涙をこらえた。

 「……ボール、買おうかなあ。休みの日に、公園の隅ででもリフティングしようかな」

 弓削田が微笑んだ。今日見た中でいちばん明るく、うれしそうな笑顔だった。

 「やった! また悠平のプレイが観れるんだ」

 「いや、プレイって、そんなの無理だよ」

 「いいや、始めたらすぐだよ。おまえは天才なんだから。すぐに勘を取り戻して、絶対にフィールドに立つ」

 「サッカーで二十六歳って、相当おっさんだよ」

 「関係ねえよ。すぐ今までのぶんを取り戻せる」

 「だったらしずは、漫画描いてくれよ。あの三人組の話、途中までしか読んでないんだから。新作でも、もちろんいいけど」

 「……もうずっと、漫画どころか絵だって描いてないよ。スケッチひとつしてない」

 「だから、今から始めればいいだろ。小三であの物語を描いたんだ。しずには、おもしろい漫画が描けるんだよ。最近はもう全部デジタルなんだろ? 漫画用のパソコンを買い揃えよう。香典返しで半分出してやるよ。それとも、紙とペンの方がやり易いのか?」

 「……」

 弓削田は遠い目をして、窓の外を見た。

 「漫画かあ……」

 子どもみたいな呟きで、俺はまたも危うく涙をこぼす処だった。

 「……そうだな。今はもうパソコンで描くんだよな。あれって、どんな描き心地なんだろうな。俺はノートに鉛筆と消しゴムで描いてただけだからな。アナログったって、Gペンすら握ったことない」

 「んじゃ、やっぱデジタルじゃないか? そっちで描き慣れていった方がいいよ。きっと応募とかし易いだろうし」

 「お、応募? 無理だよ」

 「漫画アプリとか読んでねえの? いろんな出版社が、しょっちゅういろんな賞を設けて募集してるぜ」

 「……そんなのは、とても、想像できねえけど」

 弓削田も何だか涙ぐんでいるように見えたが、見間違いだったかもしれない。

 「自作の漫画をアップする媒体は確かに、たくさんネットにあるよな」

 「早く読みたい!」

 「……また、無性が出てきちゃうかもしれねえ」

 「最高。おもしろそう。早く描いてくれ」

 弓削田は眼鏡を外して俯いた。両方の目頭を指で押しているのを見て、俺は窓の外へ目を逸らせた。眩しい八月の終わりの陽射しが、町に溢れ返っている。歩いていく人々はサングラスをかけたり、日傘を差したり、タオルで汗を拭いていた。

 サッカーボール。

 俺にはそれが買える。

 自分で稼いだ金で。

 そして、休みの日には自由に出かけられる。どこにだって行ける。手の甲の激痛や、空腹に怯える必要はもうない。

 よかった。

 やっぱり、生きていてよかった。

 大人になれてよかった。

 子どものまま死なないでよかった。

 窓の真ん前には父親と母親が立っていて、みっともない姿で、俺を見下ろしていた。

 好きにすればいい。

 幾らでも、俺を憎み続けていればいい。

 彼らを見ても俺はまったく嘔き気を感じなかった。胃も食道も落ち着いたままで、飲んだオレンジジュースを堪能していた。こんなのは初めてのことだった。

 俺はリフティングの練習をして、しずの漫画を読むんだ。

 小さくしゃくりあげる声が聞こえて、俺は正面に座っている男を見た。

 ポケットからティッシュを出して手渡す。俯いたまま、しずは震えながら涙をこぼしていた。

 よく。

 本当によく、生き延びてきた。

 どれだけ恐ろしかったろう。苦しかったろう。辛かったろう。死にたかったろう。

 こんなにも傷ついて。こんなにもぼろぼろになって。

 声に出して言おうかと思ったが、今声をかけたらもっと泣いてしまうと思った。自分のハンカチを目許に強く押し当てて、下唇を噛み締めている。何とか早く泣き止みたいのだ。だから今は何も言わないことにした。

 しず。

 生き延びて、俺に逢いに来てくれてありがとう。

 サッカーのことを、あの漫画のことを、思い出させてくれてありがとう。

 これから先は、まだきっと長い。

 




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反芻奇譚 昏野 @iyori_touno

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