第二章∶十一節 運命と天の視点

長老の家を後にして、村を歩きながらカカセオは、ナブタプラヤを襲う砂漠化が自らが思う以上に進んでいることに困惑を隠せなかった。自らに課せられた宿命が何をもたらすのか…ナブタプラヤへの深い愛着と、未だ見ぬ大きな流れに揺らいでいた。


そんなカカセオを横目に、バラカは語り始める。


「運命の歯車は、一つ動き出すと次々に展開する。毎日出る場所を変えて星々が夜空に巡るように。そして一年経つとまた同じ所へ戻るように見える。しかし、時はその中心を真っ直ぐ貫く様に進んでいる。その時の流れの中に、俺たちの生があるんだ。」


「今、俺たちが直面していることも同じことだ。我らの祖先もまた、このような試練を経験した。もしかしたら、その時にお前と同じ宿命を背負い、この地を旅立った者がいたかもしれない。」


カカセオは、その言葉を聞いて、何か大きなものに突き動かされるような感覚を覚えた。


「バラカ…なぜお前は、そんなにやるべきことが分かっているのだ? 俺はこの土地で過ごし、学んだことを忘れることはできない。空も、星も、湿地も、狩りも、祭りも、ここにいる全ての人々も…俺はこのナブタプラヤの全てに生かされてきたんだ。」


バラカは静かに言った。


「俺は、運命の中を生きている。このナブタプラヤの自然も、星も、人々も、またその運命の中にある。」


「運命の中を…生きる…」


カカセオは、その言葉を反芻するように呟いた。


バラカは続ける。


「生きるんだ。しかし、お前の言う通り、生かされていることを忘れてはならない。」


そう言うと、バラカは言葉を止めた。


カカセオはバラカの言葉を聞きながら、足元の草を踏みしめ、遠くの地平線を見つめた。


(運命の中を…生きる…)


彼は今まで自分が背負ってきた宿命を、まるで大きな流れの一部であるかのように感じ始めた。

ナブタプラヤの自然や人々、そして自分自身が、ただ一人で戦うのではなく、長い時の流れの中で存在しているのだと、ふと気づく瞬間だった。

その思いが胸に広がるにつれ、これまでの焦りや不安は少しずつ薄れ、代わりに静かな決意が芽生えた。


(俺の周りに全ては回り続けている。例え歩みを止めようとも流れは進み続ける。ならば、この運命の中を歩いていこう)


カカセオは静かに微笑み、バラカの背中にそっと手を置いた。


遠くで牛の鳴く声がした。湿地を渡る風が、草を静かに揺らしている。


一方でヌエベ村ではマルカムとアルムがセヘテプを連れて夜のストーンサークルへ赴いていた。

松明に照らされたヌエベ村のストーンサークルが赤く揺れている。


「元々はゼクハナ村にあったストーンサークルを模して我々が作り上げた物じゃが、この仕組みは遥か遠い祖先が、このナブタプラヤの地に辿り着いた時に築いた物じゃ。」


マルカムが話しだした。

セヘテプはストーンサークルと星々に囲まれた地平線をぐるりと見渡すと静かに次の言葉を待った。


「真中の東に向かって二列になっている三つの石柱は、我々にとって最も大切な星、ミカ・ナ・サムの三つ星。南から立って見ると少し斜めに傾いているが、この傾きは春分と秋分の時、天体におけるミカ・ナ・サムの傾きを表している。夏至の太陽はその右端の二つの石柱の真中を通る事になる。この石柱からそれぞれ影が伸び、それぞれの石柱に触れる時が我らの日中における神聖な時間帯を指す。夜になるとそれぞれの石柱から特定の星々が昇り、それによって我らは季節の巡りを知る事になる。」


ひとしきり話を聞くとセヘテプは問うた。


「ふむ…なるほど…、影によって流れる時を区切り、概念化するという事だな。」


ネフェルスは頷くと続けた。


「太陽が昇る方角である東と沈む方角、西。そしてさらに天に隠された南北、それぞれに星を当てはめる事でわしらは天体を読む。」


セヘテプは少し目を見開く。


「天に隠された南北…?」


「そうじゃ。太陽が最も高くなる場所で石の影は最も短くなり、日の出と日の入りの真ん中の一点を指し示す。それが北じゃ。そしてその逆は南となる。この南北、二つの方角は影によってのみ、顕現する天に隠された方角じゃ。」


ネフェルスは、静かにそして厳かにそう打ち明けると、セヘテプはかすかに頷く。

 

「……天に見えないものが、地に顕れる…」


そして、咳払いを一つ──


「我らは目に見えるナイルの流れの中に上下を見い出し、南北を定めていたが、ナブタプラヤの民は影によって目に見えない天の理を地上に描いたのだな…」


そう呟くと、ストーンサークルをぐるりと見回し、暫く思案に耽ると話し始めた。


「この上下左右に二つそれぞれある黒い石は東西南北となる訳だな。東西を真横に一直線ではなく夏至の日の出に合わせて直線を結んである。夏至の日の出に東西を合わせてそこを一年の始まりであると認識している訳だ。」


マルカムは頷く。


「うむ、我々にとって夏至は雨季の到来となる特別な時じゃ。」


「なるほど、上エジプトではシリウスによるヘリアカル・ライジングの時にナイルの氾濫が起きるが、それに先駆けてナブタプラヤでは雨季の到来という事だ。」


「そうじゃ、ここから南のヌビア地方一帯に雨季が来て、それがナイルの川下に向かって流れ込むのじゃ。」


「ふむ、我々は山や丘を目印に日の出や星の観測をするが、ナブタプラヤの地平線に囲まれた中ではこのストーンサークルがその代わりを果たしているという訳だ。」


「そういう事じゃ。そしてそれは我々にとって天の視点をもたらした。」


セヘテプは驚きマルカムへ振り返った。

マルカムは続ける。


「わしらは天の巡りを外から見ることが出来るようになったんじゃ。」


「なんと!天の視点とは…」


セヘテプは唖然としたが、やがて気付いた。


「そうか!我々はこのストーンサークルの内側にいるという事か!しかし、ナブタプラヤはこのストーンサークルの外側から東西南北、どの視点からでも星を見ることが出来る…天体の流れをあらゆる視点から認識出来るという事か!」


「──我々は…この視点を持ち得なかったのか…」


「その通りじゃ。それによって例え広大な砂漠の中だろうと、我らは今どの地点にいるのか割り出せる様になったのじゃ。」


「それは天が地上を覗き込む位置じゃ。人がその視点を手にした時、もはや星は導きではなく共にある存在となるのじゃ。」


セヘテプは全身に戦慄が走った。これは星を読む技術が強力な軍事力として転用出来るという事を示唆していたからだ。ナブタプラヤを敵に回す事は上エジプトにとって脅威でしかない。それを瞬時に見抜いたのだった。

この時、セヘテプの決心はついた。


(ナブタプラヤを同盟国として受け入れよう。これは必ずや上エジプトにとって大きな利をもたらす。)


マルカムは続けた。


「また、これは我らの哲学にも関係するものじゃ。人は産まれ死んでゆく。そしてこの天体の巡りのようにまた産まれ変わるのじゃ。このサイクルは延々と続き、あらゆる欲と渇きによる苦しみの中で学びを深めていかねばならぬ。それは進化をもたらすが人はこの法から永遠に抜け出す事はできぬ。それがこの円の中におる宿命じゃ。一度この運命の環の外から見れば我々は己の位置を知る事が出来る。己の位置を知れば進むべき道を知る事が出来ると言うものじゃ。その先に学びの終着点、つまりこの環から抜け出す時が来る。それが東西南北に据えられた二つの黒い石の門じゃ。門とは、通る為だけにあるのではない。己が今、どこにいるかを知るための標でもあり、大いなる次の循環への入口なのじゃ。」


マルカムは四方向に据えられた黒い石の門を指して言い放った。

セヘテプは己の心を見透かされたかのような無力感に襲われた。そして出来うる限りの力を振り絞って口を開いた。


「生命が循環する・・・?そして、次の大いなる循環・・・。我らの教えでは死後、良き魂は天へ昇り永遠と一体化し、悪しき魂は地下で消滅させられる。ナブタプラヤでは全ての生命が天と地を循環するというのか!?そしてこの世界こそが苦しみと説き、この循環から抜け出す事に重きを置いているというのか・・・」


「そうじゃ、我らに消滅はない。あるのは何層にも重なった世界じゃ。そして、あらゆる魂が学びを経ていくつもの円環を抜けた後に、いつか大いなる安寧へと向かう道が用意されておるのじゃ。」


「苦しみこそが学び…と。うむ…凄まじい生死観だ──これは…人の生死の認識を、根底から覆す…」


「すなわち、死をも恐れぬ思想…と…。もはや返す言葉も見当たらぬ…」


マルカムの、そしてナブタプラヤの達観した世界観に為す術はなかった。

人の世では、やもすれば人と人の間に自らの位置を定めるが、それは他人がいてようやく自らを知るという事なのだ。しかし、ナブタプラヤの民は東西南北に自らの位置を取る。そして向かう方向性は人と人の間にあらず、運命を超越した場所へと定めている。

それは発展した文化を持つ上エジプトの地では、もはや忘れ去られようとしている観点であった。


そして、セヘテプは吸い寄せられるようにストーンサークルの中心へ足を踏み入れると、東西南北に据えられた黒い石の門を見渡しながら、自分の心の奥底を覗き込んだ。 


(天の視点…。我々はただ星を仰ぎ見るだけで、本当の意味で天の理を知ろうとしてこなかったのかもしれない)


彼の胸には、これまでの常識が揺さぶられるような衝撃が走った。

同時に、ナブタプラヤの叡智をネケンに伝える責任と、その知恵がもたらす可能性に、興奮と一抹の不安が入り混じる。


闇夜に星を見て己の位置を知る…死をも恐れぬ魂…

もしこれが軍事や政治に応用されたら…


その想像は彼の背筋を震わせた。

しかし、その先に広がる協力と発展の未来もまた、心に浮かんだ。

いや、これは脅威ではなく、新たなる道の始まりなのだ。

セヘテプは静かに息を吐き、マルカムの言葉を心に刻んだ。


(この知恵は、きっとナイルの未来をも変えるだろう)


彼は夜空を見上げ、決意を新たにした。


そして喘ぐように言葉を放つ──


「これは伝えねばなるまい。我がネケンに、この地の叡智を…」


無数の星々は、ざわざわと騒めくようにセヘテプに向かって瞬きを返していた。



それから三人は村へ戻り、村の中央にある井戸を通りかかるとセヘテプはアルムに尋ねた。


「昼間ここから村人が水を汲み出していたが、変わった貯水槽だな。なぜわざわざ深くに水を貯め、滑車で汲み上げている?」


アルムは笑いながら言った。


「これに目を留めて訪ねてきたのはあなたが初めてだ。これは我らが井戸と呼んでいるの物で貯水槽ではない。」


セヘテプは首をかしげた。


「貯水槽ではない?ではなぜ水がある?」


アルムは真剣な顔で答えた。


「地下にある水を掘り出している。地下には水の脈があり、そこから出る水は清浄な水で汚れが無い。」


セヘテプは驚いた。


「掘り出す?地下に水の脈?清浄?一体どう言う事だ?水の無い場所から水を取り出すと言う事か?そんな事が可能なのか?」


「そうだ。その昔、もっとこの付近に水が溢れていた時、どこでも少し掘れば水が出た。砂漠化が進むと共に穴は深く掘らねばならなくなったが、掘ればそこに清浄な水が豊富に湧き出るのだ。」


そうアルムが言うとセヘテプはまた驚愕した。


「なんたる事だ…この技術は川が無くとも人が住めると言う事を意味している。これは人類の生存を根底から覆す発見だ。こんな生活を営んでいるのか…ナブタプラヤは…」


アルムとマルカムは深く頷いた。


「この地下に眠る水脈を見つけるのは我らの遠い祖先から伝わる技術じゃ。我らの祖先は遥か遠い遠い北の地よりここへ移り住んだという。天の水脈、地の水脈、そこを循環する生命の理を携えてな。」


セヘテプの混乱具合は尋常では無かった。ストーンサークルにおいて打ち砕かれた彼の概念は、正気を取り戻す間もなく再び粉砕されてしまったのだ。

もはや声も絞り出す事が出来ぬセヘテプは力なく応える。


「よく解った。素晴らしき思想と文化だ。今日、私はここで神秘に触れた。案内を心より感謝する。私は今日、国よりも文化の強さというものを見たのかもしれぬ…」


そして、彼はふと空を仰ぎ見た。



魂の循環という概念、東西南北という天と大地の交差点によって織りなす座標という概念、地下の水脈を掘り当てる技術が世界に広がりを見せる萌芽の瞬間だった。

それはまだ小さな環の揺らぎだった。だが、その震えはやがて大地を越え、星々の間にさえ、響いてゆく。

ナブタプラヤからネケンへ、そしてナイルから世界へ──


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