モノノベホノカを訪ねなさい。(一)
このごろ、
「ううん、いやね、気にしないでください」
と、いつも誤魔化される。
「何かあれば教えてくださいね。ここのお弁当、毎日楽しみにしてますから」
僕には、そう言うことしかできない。
夏菜子さんは弁当屋を営んでいる。二年ほど前、昼休みにふらっと寄ってから、彼女の弁当の虜になった。メニューによってムラはあるが、それでも夏菜子さんが作る弁当は絶品なのだ。
その上、この店で夏菜子さんと一言二言交わしたら、午後の仕事もちょっぴり頑張れそうだと感じていた。
夏菜子さんが浮かない顔をしていては、僕もあまり仕事に身が入らない。
「実はね、」
ある日、夏菜子さんが教えてくれた。
「前までレジをしてくれていた男の子いるでしょう。彼は辞めてしまったのだけど──」
この頃、この弁当屋では売上計算が頻繁にずれていたらしい。そのたびにアルバイトの男の子に注意していたら、その子が嫌になって辞めてしまったそうだ。だが男の子が辞めても計算のずれは直らかったという。
「まあ頻繁といってもずれは少額だし、経営には差し支えないんですけど……」
夏菜子さんはいつもの誤魔化すような笑い方で、最後にそう付け加えた。色々可能性を考えたが、僕一人では皆目見当もつかず、
「それは心配ですね。どなたか専門の方に、一度相談をしてみてはいかがですか」
と、情けない台詞を吐いた。
いつからか、夏菜子さんの様子はどんどんおかしくなっていった。とうとう店の金だけでなく、夏菜子さん自身の財布からや口座からも引き抜かれるようになったらしい。夏菜子さんはどこかしこに相談を持ちかけたという。近場の経営相談所──これは公的機関とは言えないが──のほかにも警察や弁護士、無料相談と名の付くものには全て足を運んだそうだった。
「もう、おかしいんです。お金だけじゃないんです。押し入れにあった毛布とか旦那にもらったネックレスとか、何でもかんでも消えていって──」
夏菜子さんは憔悴していた。見えない何かに怯えて、毎晩毎晩、今日は何が消えているのかと憂いているらしい。顔を見ると、目の下の隈も随分と酷い。
僕は当惑の末、「いつか解決しますよ」とか「僕がいますよ」とか無責任な気休めも言えなかった。
そしてまた少しが経った。結局、夏菜子さんは弁当屋を閉じることにした。それでも僕は夏菜子さんが心配で、閉店から何日かは、店の二階にあった夏菜子さんの家を訪ねた。
ある日──。
「聞いてください。この前ね、専門家の方がいらしてくれたんですよ」
いつかぶりに夏菜子さんの嬉しそうな表情を見た気がした。
話を聞くと、何でも、最後の締め作業のときに妙な男が現れたという。濃紺のスーツを着た眼鏡の男が、夏菜子さんの後ろから声をかけたそうだ。
「その方からこれをいただいて──」
夏菜子さんは紙切れを出した。確かこれは店のカウンターに置いてあった、メモ用の紙切れだった気がする。
その紙切れには、ある番地が書いてあった。
『○町○○江24-1-6メゾン○○406号室』
気の強そうな達筆である。スーツの男はこれを、「モノノベホノカを訪ねなさい」と言い添えて渡したそうだ。夏菜子さんは以前よりもおっとりした──いや、こうなると
僕がその
それから一ヶ月ほど、僕が夏菜子さんの様子を伺うことはなかった。仕事が忙しくなり出したというのもあったが、何より僕の中で、夏菜子さんの存在がおもりのようになっていたからである。
つまり僕は一ヶ月ぶりに、重い腰を上げて夏菜子さんに会いに行った。相変わらずシャッターの降りた弁当屋を見ては、よく笑っていた頃の夏菜子さんを思い出す。
「はい、来ていただきました。モノノベさんは凄いひとでしたよ」
モノノベホノカは、昔の装束──袈裟だか
「私のお家を見るなり、あやかしがどうって、かなだまがどうって教えていただいて──」
そのまま、モノノベホノカは一階の弁当屋と二階のこの夏菜子さんの家で神社やお寺で聞くような呪文を唱え上げたらしい。
「何か買わされたりしませんでしたか」
「いいえ、何も。ただ、また御用があればってメモ書きをいただいただけです」
そのメモ書きは、『御用』のときまで開けてはいけないそうだ。
そうやって話をする夏菜子さんの顔は、もうとっくに僕が知っていた夏菜子さんとは別人のようだった。
一段落ついたらしいと勝手に合点して、それから僕は、夏菜子さんのところに足を運ぶのをやめた。
ある昼間、僕は夏菜子さんの弁当屋の前を通った。弁当屋は営業を再開していたが、僕は弁当屋に寄らないでおいた。あのころ売り切れていたはずの弁当が列をなして売れ残っていたことが、嫌に記憶から離れずにいる。
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