第9話(終) 道具
鬼が消滅した廃工場には、破壊の爪痕だけが生々しく残されていた。
崩れた壁、砕けたコンクリート、捻じ曲がった鉄骨。
そして、その中心で、神楽湊は荒い息をつきながら膝をついていた。
鬼は倒した。
だが、戦いは終わっていなかった。
いや、むしろ、本当の戦いはこれから始まろうとしていたのかもしれない。
彼の内部で。
「……はぁ…っ、はぁ……」
激闘の興奮が冷めていくにつれて、全身を襲うのは鉛のような疲労感だけではなかった。もっと深く、もっと根源的な部分で、何かが軋みを上げていた。
先程まで全身を支配していた、あの灼熱の奔流。
破壊への渇望。
それが、完全に消え去ってはいないのだ。
まるで、一度開いてしまったパンドラの箱のように、あるいはダムの決壊のように、解放された《鬼の血》の力は、そう簡単には元通りに収まってはくれなかった。
むしろ、一度奔流の味を知ってしまったそれは、再び堰を切って溢れ出そうと、湊の内で暴れ狂っていた。
「う……ぐ……っ!」
呻き声が漏れる。
頭痛がぶり返し、視界が再び赤く明滅し始めた。
右目の奥が、ズキズキと脈打つ。
牙が、また伸びようとしているのを感じる。
先程消えたはずの、右拳の角があった場所が、疼くように熱い。
(だめだ……! 抑えろ……! 戻れ……!)
湊は必死に理性を総動員し、力の奔流を押し留めようとする。静から教わった呼吸法を試みるが、荒れた呼吸は整わず、精神は散り散りになろうとしていた。まるで、激流の中で小さな筏にしがみついているような、心許ない感覚。
『……モット…モット力ヲ……』
どこからか、囁き声が聞こえる。
それは鬼の声。
自分自身の、心の奥底から響いてくる、鬼の本能の声だ。
『……殺セ……喰ラエ……犯セ。ソレガオ前ノ本質』
その声は、甘美な毒のように精神を蝕んでいく。
抗えば抗うほど、疲弊した心身はその誘惑に屈しそうになる。楽になってしまいたい。この苦しみから解放されたい。全てを破壊し尽くす、ただの力になれば、もう何も考えなくて済むのではないか。
「……やめろ……っ!」
湊は頭を抱え、床に額を擦り付けた。
全身が痙攣し、汗が噴き出す。
このままでは、本当に鬼になってしまう。人としての自我が、完全に飲み込まれてしまう。
恐怖が、絶望的な形で彼を襲った。
その、まさに限界と思われた瞬間。
ひやり、とした冷たい感触が、首筋に触れた。
「――!」
湊は反射的に顔を上げた。
いつの間に現れたのか、白衣の女性が彼のすぐそばに屈み込み、その冷たい指先で湊の項に触れていた。彼女の表情は、相変わらず陶器のように無表情だが、その黒曜石のような瞳は、苦しむ湊の状態を正確に見抜いているようだった。
月詠静だった。
「……月詠、さん……」
掠れた声で名を呼ぶのが精一杯だった。助けを求めるように、彼女を見上げる。
「……バカな子。力の制御を怠るから、こうなるのよ」
静の声は、氷のように冷ややかだった。
だが、その声には、僅かながらも安堵のような響きが混じっているようにも感じられた。彼女は懐から、数本の銀の鍼を取り出した。
「動かないで。今、流れを戻すわ」
静は、一切の躊躇なく、その鍼を湊の身体に打ち込んでいく。
首、背骨、胸。
そして、四肢の経絡。
その手つきは、機械のように正確無比で、淀みがない。
鍼が打たれるたびに、湊の体内で暴れ狂っていた力の奔流が、まるで導かれるように鎮まっていくのを感じた。
灼熱の奔流が、冷たい清流へと変わっていくような感覚。赤く染まっていた視界が、徐々に元の色を取り戻していく。
頭痛が和らぎ、牙が引っ込み、角の疼きも消えていく。
それは、激しい嵐が過ぎ去った後のような、深い静寂だった。
しかし、同時に、全身から力が抜け落ちていくような、強烈な脱力感にも襲われる。
「はぁ……はぁ……」
湊は、ぐったりと地に身を横たえ、浅い呼吸を繰り返した。辛うじて、鬼に飲み込まれる瀬戸際で、引き戻されたのだ。
静の、冷徹だが確かな「医療」によって。
「……ありがとう、ございます……」
かろうじて、感謝の言葉を口にする。
静は立ち上がった。
そして、地に倒れる湊を、値踏みするかのように見下ろした。
「礼には及ばないわ。これは、私の仕事。君という存在を、管理するための当然の処置よ」
その言葉には、一片の温かみもなかった。彼女にとって、湊はあくまで管理対象であり、鬼を狩るための「道具」なのだ。その事実が、回復し始めた湊の心に、再び冷たい影を落とす。
「立てる?」
静は手を貸す素振りも見せず、淡々と言った。
湊は、まだ痺れの残る体に鞭打ち、ゆっくりと身を起こした。全身が泥のように重い。
だが、鬼の力に支配される恐怖に比べれば、この疲労感など取るに足らないものだった。
「……はい。なんとか」
「そう。なら、帰りなさい」
静は背中を向け、廃工場の出口へと歩き始めたが、そこで湊を見る。
「ただし、覚えておきなさい。次は、ないかもしれないわよ」
その言葉は、警告であり、脅しでもあった。
湊は、静の背中を見送りながら、改めて自分の置かれた状況を理解した。自分は、鬼を倒す力と、その力に飲み込まれかねない危うさを、常に抱えて生きていかなければならないのだ。
そして、その危うさを管理する月詠静という存在からも、逃れることはできない。
束縛は、終わらない。
むしろ、より強く、確かなものになったのかもしれない。
湊は、崩れた廃工場の中に一人取り残され、深い溜息をついた。
夜空には、皮肉なほど美しい月が浮かんでいた。
その冷たい光が、彼の孤独と、終わりの見えない戦いを、静かに照らし出していた。
鬼の血脈を継ぐ者 kou @ms06fz0080
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