第8話 角のない鬼

 湊は苦しんでいた。


『……!?』


 鬼が、初めて明らかな動揺を示した。

 伸ばしかけた手を、反射的に引く。目の前の獲物から放たれる気配が、一瞬にして変質したからだ。それは、単なる人間の抵抗ではない。

 もっと根源的で、獰猛。

 そして――同種の、敵対的な《鬼》の気配。

「……あああああああああああっっ!!」

 湊の喉から迸ったのは、もはや人間の声ではなかった。

 苦痛と怒り、そして抑えきれない衝動が混ざり合った、獣の咆哮。全身の血管が浮き上がり、筋肉が軋むほどの力で膨張する。体温が急上昇し、まるで内側から炎が燃え盛っているかのような灼熱感が全身を駆け巡った。

 意識の一部が、急速に遠のいていく。

 代わりに、原始的な、純粋な破壊衝動が思考を塗り潰していく。

 目の前の敵を、引き裂きたい。

 砕きたい。

 喰らい尽くしたい。

 人間としての理性が、荒れ狂う奔流の中で木の葉のように翻弄される。

 だが、その一方で、五感は異常なまでに研ぎ澄まされていた。

 世界の動きが、まるで粘性を帯びた液体の中を進むかのようにゆっくりと感じられる。鬼の動き、空気の震え、粉塵の舞う軌跡までもが、手に取るように把握できた。

 《鬼の血》の覚醒だった。

 彼の一族に代々伝わる、《鬼の血》。

 それは、常人離れした身体能力と、傷の急速な治癒力をもたらす。

 しかし、その代償はあまりにも大きい。

 激しい感情の昂ぶりや、力の酷使は、彼の肉体を内側から焼き尽くすような激痛を引き起こす。

 そして、それ以上に恐ろしいのが、理性を吹き飛ばすほどの破壊衝動だった。

 血が沸騰し、視界が赤く染まり、ただ目の前のすべてを壊し尽くしたいという、抗いがたい衝動。それは、彼が「人間」であることそのものを脅かす、忌まわしき束縛だった。

 その昔、神楽の女が鬼に陵辱された。

 それによって女の胎内に宿っていた赤子に、鬼の血が混じった。

 以来、神楽の血筋には人の姿をしながらも《鬼の血》を持つ者が生まれるようになった。鬼を狩るための力を持ちながら、自らも鬼になりかねないという矛盾。

 それが神楽湊に課せられた宿命だった。

 この血の呪いを管理し、湊が「人間」として生きていくために不可欠な存在が、月詠家だった。

 鬼は、湊の変貌に警戒しつつも、再び攻撃を仕掛けてきた。

 腕が指の股から割れ指は5本の触手となって伸びる。先程とは比較にならない速度で、多方向から湊を襲う。

 しかし、今の湊には、その全てが見えていた。

「――ッ!」

 咆哮と共に、湊は地面を蹴った。

 その動きは、もはや人間の俊敏性を遥かに超えている。弾丸のように加速し、迫り来る5本の触手の隙間を、まるで踊るようにすり抜けていく。触手が掠めた腕の皮膚が裂け、血が噴き出す。

 だが、その傷は次の瞬間には、まるで逆再生のように塞がっていく。

 常識外れの回復力。《鬼の血》がもたらす、もう一つの異能だ。

 鬼に、焦りの色が混じる。

 湊は、回避だけではない。

 触手を躱しながら、その勢いを利用して鬼の懐へと潜り込む。

 そして、赤く輝く右目をギラつかせ、牙を剥き出しにして、渾身の拳を叩き込む。

 先程とは比較にならない衝撃音。

 鬼が、初めて明確に吹き飛ばされた。その身体の一部が、黒い霧のように霧散する。ダメージが通っていた。

 鬼は体勢を立て直し、さらに激しい攻撃を繰り出す。

 口に当たる箇所が開く。

 その中で瘴気がアメーバが自己増殖するかのように膨張する。

 瘴気が、無数の棘となって放たれた。

 湊は、咆哮しながらその棘の雨の中を突進する。

 いくつかの棘が直撃し、肉を焦がし骨を砕く。

 だが、激痛は即座に灼熱の快感へと変わり、傷は瞬く間に再生していく。破壊と再生のサイクルが、彼の力をさらに増幅させていくかのようだ。

「オオオオオオォォォッ!!」

 棘の嵐を突破し、再び鬼の核へと肉薄する。

 激しい打ち合い。

 拳と拳がぶつかり合うたびに、衝撃波が廃工場全体を揺るがす。

 壁が崩れ、天井から鉄骨が落下する。

 もはやそれは、人間の戦いではない。

 鬼と、鬼になりかけた存在との、原始的な闘争だった。

 湊は、確実に鬼を追い詰めていた。

 しかし、同時に、自分自身の制御も失われつつあることを感じていた。理性の声は、もはや虫の音のようにか細い。このままでは、鬼を倒したとしても、自分は人間に戻れないかもしれない。破壊の衝動に身を委ね、永遠にこの獣の姿のまま彷徨うことになるだろう。

(……それでも!)

 脳裏に、月詠静の冷徹な顔が浮かぶ。

 そして、公園で見た、無惨に生気を奪われた女性たちの姿が。

 守らなければならない。

 終わらせなければならない。

 この連鎖を。

 その強い意志が、荒れ狂う力の奔流の中で、かろうじて残っていた人間性の最後の灯火となった。

(決める!)

 湊は、大きく息を吸い込んだ。

 全身の《鬼の血》を、右腕に集中させる。

 力が、渦を巻いて右腕に集束していく。

 筋肉が異常なまでに隆起し、血管が浮き上がり、まるでマグマが流れているかのように赤熱化する。

 そして、その力の奔流が臨界点に達した瞬間。

 バキィッ!!

 肉が裂け、骨が軋む音と共に、湊の右拳、小指側の側面から、何かが突き出した。

 それは、濡れたような黒曜石のような光沢を持つ、鋭利な一本の角だった。

 長さは短剣ほど。

 拳を握りしめた際に、ナイフを逆手持ちにしたかのような、絶妙な角度で生えている。それは、彼の《鬼の血》そのものが、彼の意志に応えて形を成した、鬼の角だった。

 角の出現は、激しい痛みを伴った。

 だが、その痛みすら、今の湊にとっては力を増幅させる燃料でしかなかった。


『ソレハ!?』


 鬼が、その角を見て初めて明確な恐怖を示した。

 それは、同族でありながら、自らを滅ぼしうる力の顕現だったからだ。

「終わりだッ!!」

 人の言葉と獣の咆哮が混ざったような叫びと共に、湊は最後の一撃を放つべく、地面を蹴った。

 角を纏った右拳を、一直線に鬼の核――あの明滅する仄暗い光――へと突き出す。

 古武術の突き技の精髄と、解放された鬼の力が、角に集束する。

 それは、一点突破の、絶対的な破壊の意志。

 鬼も、最後の抵抗を試みる。

 残った全ての瘴気を凝縮させ、黒い障壁を展開する。

 しかし、角を纏った湊の拳は、その障壁を紙のように容易く貫いた。

 鈍い感触。

 湊の右拳、その先に生えた角が、鬼の脇腹を正確に捉え、深々と切り裂いた。

 恐ろしい切れ味。

 これこそが、不良のサバイバルナイフを切断した力だった。

 鬼が、これまでとは比較にならない、魂そのものが引き裂かれるような絶叫を上げた。

 鬼は、急速に形を失い、黒い粒子となって崩壊を始める。その崩壊は鬼の身体の維持を困難にし、許しを請うように両膝を湊の前に着く。

 湊は角を生やした右拳を振り上げた。

 鬼は、次の攻撃を予測したが、遅い。

 湊は、渾身の力を込めて、握り締めた右拳を――角を鬼の頭に向けて振り下ろした。


【鉄槌打ち】

 正拳と同じ握りで手の小指側の面、すなわち鉄槌にて相手を打つ技。

 使い方として、左右・前方・下方など広い範囲を攻撃することができる。

 拳の小指側は肉が厚く強く当ててもケガをしにくい。攻撃の際は自然と脇が締まりやすく体重が乗る。

 通常の拳による突きは地面と平行に繰り出される故に体重が乗せるのが難しいことに対し、重力と同じ方向に繰り出す鉄槌は体重を乗せやすい故に、手技最強とも言われる。

 その技の要諦は、腕力で打ち込まず、膝を抜いて体重を拳に伝えることにある。

 

 角による鉄槌打ちは、鬼の頭を粉々に吹き飛ばした。

 頭部を失った胴体が崩れ落ちると、音を立てて崩れ去っていく。

 そこに鬼の姿は跡形もなく消え去っていた。

 瘴気も、冷気も、不快な囁きも、全てが霧散し、元の廃工場の静寂だけが残されていた。

 湊は、荒い息をつきながら、その場に膝をついた。

 右拳の角は、役目を終えたかのように、ゆっくりと手の肉に戻り、皮膚の裂け目も急速に塞がっていく。右目の赤い光も薄れ、牙も元の犬歯へと戻っていく。

 だが、力の代償は大きかった。

 全身には鉛のような疲労感が残り、意識は朦朧としている。何よりも、先ほどまで自分を支配していた、あの破壊衝動の残滓が、まだ心の奥底で燻っているのが分かった。

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