第7話 限界

 鬼は、その巨体を起こしつつある。

 体勢を整えさせる訳にはいかない。

「まだか……」

湊は追撃に移る。

 相手の巨体に怯むことなく、深く踏み込む。

 意識を臍下三寸にあるとされる丹田たんでん――古来より武術や気の修練で重視される、力の源泉とされる部位――に集中させ、そこで練り上げた内なるエネルギー、すなわち《気》を右拳へと送り込む。

 そして、その気を込めた拳を、鬼の胴体へ向けて放った。

 それは単なる腕力による打撃ではない。神楽の家に伝わる古武術によって編み出された、邪を打ち破り、正しきを顕すという破邪顕正はじゃけんしょうの理合を込めた拳。

 清浄な気が、鬼の放つ穢れた瘴気を打ち破る、対妖鬼戦における基本の一つだった。

 しかし、拳が影に触れた瞬間、まるで粘性の高い泥に腕を突っ込んだかのような、あるいは分厚いゴムを殴ったかのような、奇妙な抵抗感があった。

 確かな手応えはある。

 だが、ダメージを与えているという実感がない。

 拳を引き抜くと、影は僅かに揺らめいただけですぐに元の形に戻ってしまう。

「くっ…!」

 物理攻撃が効きにくい、あるいはダメージが即座に修復されるのか。

ならば、と湊は一瞬で戦術を切り替えた。

 深く息を吸い込み、呼吸を整える。

 意識を丹田に沈め、練り上げた気を右腕へと通す。

 次に彼が繰り出したのは、神楽の古武術の中でも、高度な身体能力と気の運用が要求される奥伝の技――貫手だった。

 人差し指と中指を揃えて鋭く伸ばし、そこに全身の力と練り上げた気を針の先端のように集束させる。この技は、脆弱な指先を鋼のように鍛え上げ、一点に凝縮した破壊力で敵を貫くことを目的とする。

 指先は骨も細く、鍛えなければ容易に骨折してしまう。そのため、巻藁突きや砂袋突き、指立て伏せといった地道で過酷な鍛錬によって、指、手首、前腕を鋼のように鍛え上げる必要がある。

 一見シンプルだが、極めて高度な技術と鍛錬を要する。高い殺傷力を持つ故に、あらゆる格闘技の試合では禁じ手とされており、現代には必要とされない技。

 対人戦闘においては目、喉、鳩尾、金的など急所攻撃の切り札となり、対妖鬼においては、その清浄な気を直接相手の核へと打ち込み、内側から浄化・破壊するための最終手段の一つとされていた。

 湊は、その鋭利な気の刃と化した指先を、影の核――あの明滅する仄暗い光――を目がけて、寸分の狂いもなく突き出した。


『無駄ダ』


 鬼は、その貫手を異様に長い腕で受け止めた。

 湊の指先と影の腕が接触した瞬間、湊の気と鬼の気が静電気のような火花が散る。僅かに影が削れたが、致命傷には程遠い。それどころか、触れた部分から、冷たい痺れのような感覚が腕を伝わってくる。

「ぐ……!」

 湊は咄嗟に腕を引き、距離を取る。

 鬼は、その隙を見逃さなかった。

 再び腕を触手にし、嵐のような連続攻撃を仕掛けてきた。

 上下左右、あらゆる角度から迫る黒い鞭。

 湊は、道場で培った体捌きと見切りを駆使し、それを躱し続ける。

 廃工場の床を、柱を、機械の残骸を、触手が次々と破壊していく。

 粉塵が舞い上がり、視界が悪くなる。

(速い! 重い! そして、変幻自在すぎる!)

 湊の額に、冷や汗が滲む。

 これまでの稽古や、先日の不良との喧嘩とは、次元が違う。

 相手は人間ではなく、物理法則すら無視する異形の存在。

 湊の古武術の技は、対「人」を想定した部分を発展させた、対「鬼」の術理がるが、それを用いても、この捉えどころのない、圧倒的な力の前には、有効打を見出せない。

 避け続けるだけで、精一杯だった。

 攻撃の隙が見えない。

 いや、見えたとしても、自分の攻撃が通用する確信がない。

 焦りが、じわじわと心を蝕んでいく。その焦りが、《鬼の血》をさらに刺激する。右目の疼きが増し、心臓の鼓動が早鐘のように鳴り響く。視界の赤みが、徐々に濃くなっていくのが分かった。

(落ち着け、冷静になれ……!)

 自分に言い聞かせるが、鬼から放たれる精神的な圧迫感――恐怖や絶望といった負の感情の波動――が、湊の精神統一を阻害する。


『苦シイカ? ソレガオ前ノ限界ダ』


 嘲るような声が、脳内に響く。

 その一瞬、湊の集中が途切れた。見えない角度から、太い触手が薙ぎ払うように迫っていたことに気づくのが遅れた。

「しまっ――!」

 回避が間に合わない。咄嗟に腕を交差させて防御の姿勢を取る。

 凄まじい衝撃。

 まるで鉄骨で殴りつけられたかのような痛みが全身を貫き、湊の体は枯れ葉のように吹き飛ばされた。工場の壁に叩きつけられ、息が詰まる。

 視界が明滅し、全身の骨がきしむ音を立てた。

「がはっ! げほっ……」

 口の中に鉄の味が広がる。

 壁からずり落ち、床に膝をつく。立ち上がろうとするが、全身が鉛のように重く、力が入らない。

 鬼が、ゆっくりと近づいてくる。その顔のない顔、仄暗く明滅する単眼が、嬲るように湊を見下ろしている。

(……強い)

 これが、鬼。

 人を喰らう存在。

 まだ中学生の自分では、未熟な古武術の技では、到底太刀打ちできない相手なのかもしれない。絶望感が、冷たい霧のように心を覆い始めた。

 鬼の手が、ゆっくりと湊に向かって伸ばされる。その指先が、触れるか触れないかの距離まで迫ってきた。冷たい瘴気が、肌を焼くように感じられる。

 もはや、これまでか――。

 絶望が、冷たい氷の針のように湊の心を突き刺した。

 鬼の指先が、まるで死神の鎌のように迫る。

 冷たい瘴気が肌を撫で、全身の産毛が逆立つ。

 これまでか――諦念が意識を白く染め上げようとした、その瞬間。

 湊の右の眼球が、内側から弾けるような閃光を発した。

 それは血のように赤く、しかし自ら光を放つ、鬼火のような輝きだった。同時に、口の中で鋭い痛みが走る。右側の犬歯が、音を立てて急速に伸び、肉食獣のそれのように鋭く尖った「牙」へと変貌したのだ。

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