第6話 神楽の古武術

 鬼の核が、不快な脈動を一度、強く放った。

 まるで、侵入者を認識し、その敵意を受け止めたかのように。

 湊は息を殺し、猫のようにしなやかな足運びで、慎重に間合いを詰めていく。道場で叩き込まれた古武術の歩法。気配を消し、敵に悟られずに接近するための技だ。

 だが、相手は人間ではない。

 物理的な感覚器官に頼らずとも、湊が放つ微かな闘気。

 そして、彼の中に流れる《鬼の血》の濃密な気配を、鬼は既にはっきりと捉えていた。


『……同胞……イヤ……餌……』


 直接脳内に響くような、あるいは腹の底から湧き上がるような、不快な声。それは単一の声ではなく、無数の怨嗟や苦悶が混ざり合った、歪な合成音のようだった。

 その声と共に、不定形だった黒い影が急速に収束し始めた。

 ゆらめきながら、闇の粒子が集まるように、それは次第に人の形を取り始めたのだ。

 ただし、それは歪で、不完全な模倣だった。

 身長は湊よりも高く2m50cmを超え、手足は異様に長く、関節の位置もどこかおかしい。

 顔にあたる部分には、のっぺらぼうのように目鼻口はなく、ただ中心の仄暗い光が、まるで一つの巨大な単眼のように、不気味に明滅しているだけだった。

 頭には角らしきものが生えているようだったが、先端は渦を巻き、捻じ曲がり、もはや形状すらも定かではない。

 闇で編まれた、悪夢の人形。

 その影の人形が、ぐにゃりと腕らしき部位を振り上げた。

 それは一瞬で、まるでゴムのようにしなり伸び、鋭利な爪のような先端を持つ黒い触手へと変貌した。無数のそれが、鞭のように空気を切り裂き、湊めがけて襲いかかってきた!

「!」

 回避は、思考よりも先に身体が動いていた。

 湊は瞬時に体を沈め、横へ跳ぶ。

 直後、先ほどまで自分がいた場所の床に、黒い触手が叩きつけられ、轟音と共にコンクリートが蜘蛛の巣状に砕け散った。

 抉れた破片が、弾丸のように四方へ飛び散る。

 物理的な実体と、恐るべき破壊力を持っていた。

 湊は、思わず後退りしそうになる足を叱咤し、呼吸を整えた。

 体格差は絶望的だ。まともに組み合えば、一瞬で骨まで砕かれるだろう。恐怖が冷たい手のように心臓を掴む。

 だが、祖父の言葉が脳裏をよぎる。


『いいか湊。武術とは、力なき者が力を制するための知恵だ。体格差など、術理の前には些事さじに過ぎん』


 そうだ。

 恐れるな。

 相手がどれほど巨大であろうと、生物である限り、必ず「理」が存在する。重心があり、関節があり、力の流れがある。

 そして、必ず「虚」が生まれる。

 それを見抜き、突くのが神楽の古武術。

 古武術の術理では仮当で間合いを詰めても、最後の極めは、投げ技、固め技に至る。大兵を投げ技で極めるのは無理との論もあるが、大男を一撃で倒す拳打を身につけることも生易しいことではない。

 古武術には大兵に対する投げ技、固め技の術理は完成しており、打撃で相手の虚を作り、関節技を併用しつつ投げる技法があれば、いくら相手が大男でも鍛錬次第で十分可能なのだ。

 湊は、丹田に意識を集中させ、古武術の立ち方である「浮身うきみ」の構えを取る。力を抜き、重心をわずかに浮かせ、あらゆる方向へ瞬時に動けるように備える。

 鬼が、咆哮と共に突進してきた。

 巨体に見合わぬ俊敏さ。

 地が軋み、地響きが迫る。振り下ろされた丸太のような腕は、小型トラックが突っ込んでくるかのような破壊的な風圧を伴っていた。

(速い! だが、直線的だ!)

 湊は、迫る拳を躱す。

 半身になり、流水のように鬼の側面へ滑り込む。

 同時に、すれ違い様に開いた掌底で、鬼の脇腹を軽く、しかし鋭く打った。

 これは「仮当」。

 本格的な打撃ではなく、相手の意識を散らし、反応を探るための布石だ。


『グォ!?』


 鬼は、脇腹の微かな衝撃に一瞬気を取られた。

 その刹那の隙が、湊にとっての好機となる。相手の意識が脇腹に向いた瞬間、その逆側、つまり前方への注意が疎かになる。「虚」が生まれたのだ。

 湊は、その虚を逃さない。

 再び踏み込み、今度は肘を鋭角に曲げ、体重を乗せた「当身あてみ」を鬼の鳩尾みぞおち付近に叩き込んだ。

 さすがの巨体も、急所への的確な一撃には怯まざるを得ない。鬼の巨体がくの字に折れ曲がり、呼吸が一瞬止まる。

 体勢が前方に崩れた。

 さらなる「虚」の発生だ。

(今だ!)

 湊は、崩れた鬼の懐、死角へと深く踏み込む。

 ここで、ただ投げるのではない。古武術の投げは、相手の力を利用し、最小限の力で最大の効果を得ることを旨とする。

 まず、鬼が振り回そうとする右腕。その肘関節に、吸い付くように左手を添える。力を込めて捻るのではない。関節の可動方向とは逆へ、ほんのわずかに力を加え、動きを「殺す」。

 同時に、右手で鬼の顎下を押し上げるように掌底を当てる。これは、相手の視線を上に向けさせ、首の自由を奪い、全身の連動性を断ち切るための技だ。

 鬼は抵抗しようとするが、肘と首という二つの要所を制されたことで、その巨体に満ちる力がうまく伝わらない。まるで、巨大な機械の歯車が一つ噛み合わなくなったかのような、ぎこちなさが生まれる。

 ここからが、神楽の古武術の真髄。

 湊は、自身の体重を巧みに利用し、足捌きと体捌きを連動させる。相手の足元に軸足を踏み込み、腰を落とす。

 捉えた肘関節を支点に、円を描くように自分の体を回転させる。

 鬼自身の体重と、前方に崩れた勢い。

 そして、関節を制されたことによる力のロス。それら全てを利用し、巨大なベクトルを一つの方向へと導くのだ。

「――はぁっ!」

 気合と共に、湊は全身のバネを使って鬼の体を持ち上げるのではない。「回す」のだ。まるで、巨大な独楽を回すように。鬼の足が、その巨体を支えきれずに宙に浮く。

 廃工場の空間に、2m超の巨体が、まるでスローモーションのように舞った。

 数秒後、凄まじい地響きと共に、鬼は背中から床に叩きつけられた。

 分厚いコンクリートの床に、蜘蛛の巣のような亀裂が走る。

(決まった…!)

 湊が息を整えていると、鬼は意に反し巨体をゆっくりと起き上がった。

 それは、倒しきれていないことを意味した。

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